評論家加藤周一去逝
亡くなった評論家の加藤周一さんは、67年前のあす、日米が開戦したとき東大の醫(yī)學(xué)生だった。半生を回想した「羊の歌」(巖波新書)で、〈周囲の世界が、にわかに、見たこともない風(fēng)景に変わるのを感じた〉と心境をつづっている。
六十七年前的明天,日美開戰(zhàn)。已經(jīng)離開人世的評論家加藤周一先生那時還是東大醫(yī)學(xué)院的學(xué)生。他在回顧自己半生的作品《羊之歌》(巖波新書)中這樣描述了當(dāng)時的心境:“我感到周圍的世界驟然變?yōu)橐环瑥奈匆娺^的景象。”
それは、住み慣れた世界と自分とをつなぐ糸が突然切れたような思いだった、という。高揚と無縁だったのは戦爭の行く末が想像できたからでもあろう。帰って母親に先行きを聞かれ、「勝ち目はないですね」と吐き捨てるように答えたそうだ。
他說:那是一種如同把自己與住慣了的世界相聯(lián)系的線突然斬斷了的感覺。論調(diào)不高,大概也是因為想象到了戰(zhàn)爭的下場吧。據(jù)說回到家里母親問他前景如何時,他咬牙切齒地說:“沒有勝算。”
そして迎えた8月15日には、〈もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう〉と思った。醫(yī)者として東京大空襲の悲慘を目の當(dāng)たりにし、人間として戦爭の不條理を考え続けた。厳しい怒りに、そのリベラルは根ざしていた。
而后迎來的8月15日那天,他想,“如果沒有感受過活著是多么幸福,接下來你就會知道了吧。”作為醫(yī)生,他親睹了東京大突襲的慘狀;作為人,他又不斷思索著戰(zhàn)爭的不合理。自由主義,在這滿腔的憤慨中扎下了根。
4年前、作家の大江健三郎さんらと呼びかけてつくった「九條の會」も、深い怒りの根から咲いた花だ。花は種子を飛ばし、平和憲法を守ろうという草の根グループを全國に広げている。
四年前,他與作家大江健三郎等人一起呼吁創(chuàng)立的“九條會”,也是那深沉的憤慨之根所開出的花朵。花的種子被風(fēng)吹散,呼吁捍衛(wèi)和平憲法的草根團體發(fā)展到了全國。
長く本紙に連載した「夕陽(せきよう)妄語」は7月が絶筆になった。後の回に、何事も逆(さか)さまに眺めるクセのある、話し好きな「さかさじいさん」なる隣人を登場させている。
7月份,長期在本報連載的《夕陽妄語》成了他的絕筆。后一回中,鄰居“顛倒老頭”登場了。這是一個有著凡事顛倒來看的癖好而又愛講話的老頭。
むろん、ご本人の分身だろう。國民が下にいて、雇われた役人や政治家が上で威張る國は、民主主義を逆さに吊(つる)したもの。もう一度逆さにするほかない、などと「じいさん」は言うのである。夕陽とは老境のたとえでもある。妄語どころではない多くの宿題を今の世に殘して、「知の人」は旅立って行った。
不用說,這是作者本人的寫照吧。國民在下,受雇的官員和政治家高高在上的國家是把民主主義顛倒了。唯有再顛倒過來……這些都是“老頭”的話語。而夕陽又隱喻著風(fēng)燭殘年。睿智的老人踏上死亡之旅,把絕非妄語的諸多課題留待現(xiàn)今的世界去解決。
加藤 周一(かとうしゅういち、1919年9月19日 - 2008年12月5日)は評論家である。
學(xué)生時代から文學(xué)に関心を寄せ在學(xué)中に中村真一郎·福永武彥らと「マチネ·ポエティク」を結(jié)成し、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文學(xué)に関する評論、小説を執(zhí)筆.新定型詩運動を進める。
終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調(diào)査団」の一員として被爆の実態(tài)調(diào)査のために広島に赴き原爆の被害を?qū)g際に見聞している。
1979年より「朝日新聞」夕刊に「山中人間話」を連載、1984年に「夕陽妄語」と改題して死去直前まで連載していた。
亡くなった評論家の加藤周一さんは、67年前のあす、日米が開戦したとき東大の醫(yī)學(xué)生だった。半生を回想した「羊の歌」(巖波新書)で、〈周囲の世界が、にわかに、見たこともない風(fēng)景に変わるのを感じた〉と心境をつづっている。
六十七年前的明天,日美開戰(zhàn)。已經(jīng)離開人世的評論家加藤周一先生那時還是東大醫(yī)學(xué)院的學(xué)生。他在回顧自己半生的作品《羊之歌》(巖波新書)中這樣描述了當(dāng)時的心境:“我感到周圍的世界驟然變?yōu)橐环瑥奈匆娺^的景象。”
それは、住み慣れた世界と自分とをつなぐ糸が突然切れたような思いだった、という。高揚と無縁だったのは戦爭の行く末が想像できたからでもあろう。帰って母親に先行きを聞かれ、「勝ち目はないですね」と吐き捨てるように答えたそうだ。
他說:那是一種如同把自己與住慣了的世界相聯(lián)系的線突然斬斷了的感覺。論調(diào)不高,大概也是因為想象到了戰(zhàn)爭的下場吧。據(jù)說回到家里母親問他前景如何時,他咬牙切齒地說:“沒有勝算。”
そして迎えた8月15日には、〈もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう〉と思った。醫(yī)者として東京大空襲の悲慘を目の當(dāng)たりにし、人間として戦爭の不條理を考え続けた。厳しい怒りに、そのリベラルは根ざしていた。
而后迎來的8月15日那天,他想,“如果沒有感受過活著是多么幸福,接下來你就會知道了吧。”作為醫(yī)生,他親睹了東京大突襲的慘狀;作為人,他又不斷思索著戰(zhàn)爭的不合理。自由主義,在這滿腔的憤慨中扎下了根。
4年前、作家の大江健三郎さんらと呼びかけてつくった「九條の會」も、深い怒りの根から咲いた花だ。花は種子を飛ばし、平和憲法を守ろうという草の根グループを全國に広げている。
四年前,他與作家大江健三郎等人一起呼吁創(chuàng)立的“九條會”,也是那深沉的憤慨之根所開出的花朵。花的種子被風(fēng)吹散,呼吁捍衛(wèi)和平憲法的草根團體發(fā)展到了全國。
長く本紙に連載した「夕陽(せきよう)妄語」は7月が絶筆になった。後の回に、何事も逆(さか)さまに眺めるクセのある、話し好きな「さかさじいさん」なる隣人を登場させている。
7月份,長期在本報連載的《夕陽妄語》成了他的絕筆。后一回中,鄰居“顛倒老頭”登場了。這是一個有著凡事顛倒來看的癖好而又愛講話的老頭。
むろん、ご本人の分身だろう。國民が下にいて、雇われた役人や政治家が上で威張る國は、民主主義を逆さに吊(つる)したもの。もう一度逆さにするほかない、などと「じいさん」は言うのである。夕陽とは老境のたとえでもある。妄語どころではない多くの宿題を今の世に殘して、「知の人」は旅立って行った。
不用說,這是作者本人的寫照吧。國民在下,受雇的官員和政治家高高在上的國家是把民主主義顛倒了。唯有再顛倒過來……這些都是“老頭”的話語。而夕陽又隱喻著風(fēng)燭殘年。睿智的老人踏上死亡之旅,把絕非妄語的諸多課題留待現(xiàn)今的世界去解決。
加藤 周一(かとうしゅういち、1919年9月19日 - 2008年12月5日)は評論家である。
學(xué)生時代から文學(xué)に関心を寄せ在學(xué)中に中村真一郎·福永武彥らと「マチネ·ポエティク」を結(jié)成し、その一員として韻律を持った日本語詩を発表、他に文學(xué)に関する評論、小説を執(zhí)筆.新定型詩運動を進める。
終戦直後、日米「原子爆弾影響合同調(diào)査団」の一員として被爆の実態(tài)調(diào)査のために広島に赴き原爆の被害を?qū)g際に見聞している。
1979年より「朝日新聞」夕刊に「山中人間話」を連載、1984年に「夕陽妄語」と改題して死去直前まで連載していた。

