楚人弓を遺れて楚人これを得

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孔子の生まれた頃、中國(guó)は、晉を盟主とする北方諸侯同盟と、楚を盟主とする南方諸侯同盟の二大勢(shì)力に分かれて相対峙していたが、ここまで楚を強(qiáng)大にしたのは、春秋五覇のひとりに數(shù)えられる楚の荘王の力に俟つ所が大きかった。この英主荘王をついで立ったのが、その子共王審である。
    ある時(shí)、共王は、狩猟に出かけて自分の弓を忘れて來(lái)てしまった。そこで近侍たちが、
    「お弓をとって參りましょう?!?BR>    と言うと、共王は、
    「よいではないか、楚の人間が忘れた弓を、楚の人間が拾うだけのこと、(楚人弓を遺れ、楚人之を得)わざわざとりにいくことがあろうか!」
    と答えた。このエピソードは、いかにも國(guó)君に適わしい腹の大きな話として、後々まで語(yǔ)り伝えられたものらしい。共王の沒(méi)後八年(BC.552)に生れた孔子も、誰(shuí)かから、このエピソードを聞かされたが、すると孔子は嘆じて、
    「何と腹の小っぽけなことだ。
    《人間が忘れた弓を、人間が拾うだけのこと》(人弓を遺れ、人之を得)と言えばよかろうに。
    どうして楚に限ることがあろうか!」
    と言ったという。國(guó)家権力というものを持たなかった孔子には、國(guó)家をこえて、《人間》としてあらゆる人間に接し得る自由闊達(dá)な心境があったのだ。これは、前漢の劉向の著わした歴史逸話集「説苑」にある話だが、おそらく劉向は、自己を小さな限界に閉じ籠める《物欲》というものからの脫卻を薦めるエピソードとして、これを記したのであろう。