春という季節(jié)を思う時、まずどんな色彩を感じるかと人に尋ねると、誰もが決まって一瞬口ごもる。寒い土地はむろんのこと、暖かい土地でも冬が終わって春ともなれば、あたりはいっせいに生気をはらんで色づいてくるはずなのに、ぴたりと當(dāng)てはまる色彩が浮かんでこないのだ。しばし考えた末、薄紅とか桃色とかに落ち著く。日本の春を代表する桜が意識の底にあるからだろうか。確かに、桃や杏など同色糸統(tǒng)の花が春を鮮やかに彩るのも事実だが、待ちかねた春の到來をいち早く告げる花には,マンサク、サンシュユ、キブシなど黃色のものが多い。ひとつの季節(jié)をある色彩で言えということ自體無理なのだろうか。
私たちの國では,古くから「におう」という言葉を嗅覚だけでなく色彩の表現(xiàn)につかている。「におう」とは,つややかで美しい,ほんのりしていると言った意味である。刀の刃と地膚との境,霧のように煙っている部分も「におい」というし,染色で上部の濃い,色から下部へと淡くぼかす手法も「におい」という。私たちは,色彩をただ色としてみるだけでなく,それを味わい,嗅ぎ,時として聴き取ることさえある。
私たちの國では,古くから「におう」という言葉を嗅覚だけでなく色彩の表現(xiàn)につかている。「におう」とは,つややかで美しい,ほんのりしていると言った意味である。刀の刃と地膚との境,霧のように煙っている部分も「におい」というし,染色で上部の濃い,色から下部へと淡くぼかす手法も「におい」という。私たちは,色彩をただ色としてみるだけでなく,それを味わい,嗅ぎ,時として聴き取ることさえある。