天聲人語08年10月26日

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秋季孕育的時令水果
    負(fù)け惜しみに類するのだろうか、川柳だか俗言だかに〈賞味するほど初物に味はなし〉とある。走りの食べ物は値段は張るけれど、まだ本當(dāng)の味には遠(yuǎn)いという意味だ。とはいえ、やはり初ものはありがたく「食べれば75日壽命がのびる」などと尊ばれた。
    可能是因?yàn)椴环數(shù)脑虬桑恢谴€是俗語中有這樣一句:“初上的食物品之無味”。意思就是剛剛上市的食物雖然價格飆升,卻還不是其真正的味道。雖然這么說,可還是有人美譽(yù)初上市的東西“經(jīng)常食用可以延長75天的壽命”。
    〈ご隠居の初物ごとにいとま乞〉と、これは江戸の川柳にある。折々の初ものを食べるたびに、「ああ、これでもう思い殘すことはない」と、この世に「いとまごい」をする。拝むような姿が浮かんで、おかしみが湧(わ)く。
    江戶時期一首川柳中這樣寫道“每每嘗鄉(xiāng)間送來的初熟水果便覺可歸西矣”。大概是每當(dāng)嘗到初熟的水果時,便會覺得“啊,這樣就沒有留戀的了”,想要“一絕塵世”。腦海中浮現(xiàn)出作揖辭別的樣子,不禁失笑。
    そんな季節(jié)感が食卓から薄れて久しいが、秋の実りは別格だ。出始めの「走り」から、たけなわの「旬」、終わりが近づけば「名殘」へと、順次繰り出す多彩な恵みに舌も胃袋も忙しい。この秋は、果物がなかなかの豊作と聞いた。
    雖然這樣的季節(jié)感從餐桌上已淡薄許久,但秋天的果實(shí)卻有著特殊的待遇。從初成熟的“序曲”到果實(shí)豐盛“高潮”再到將近結(jié)束的“惜戀”。依次迭出,絢爛的大自然的恩惠下舌頭,腸胃都忙忙碌碌。據(jù)說,這個秋天大豐收。
    〈秋になると/果物はなにもかも忘れてしまつて/うつとりと実のつてゆくらしい〉。これで全文の「果物」という詩は、今日が命日の八木重吉が殘した。秋という季節(jié)を美しくうたい上げた夭折(ようせつ)の詩人である。
    “到了秋天,吃了水果就忘記了一切,似乎沉醉于果實(shí)中”這首題為“水果”的詩的作者叫八木重吉,今天正是他的忌日。他極力贊美秋之美,可惜英年早逝。
    うっとり夢見つつ熟れていく果物を、もいで食べる。清らかな詩を知ったあとは、當(dāng)たり前の営みさえ何か罪の匂(にお)いがする。ありがたさを忘れたら罰(ばち)が當(dāng)たりそうだ。詩句に導(dǎo)かれて、人は生かされているという思いに突き當(dāng)たる。
    沉醉之時,摘下成熟的水果品嘗。聽過這樣的詩句之后,原本理所當(dāng)然的事情也似乎帶有了罪惡的意味,好像忘記了感恩就該被判罪。在詩句的引導(dǎo)下,人們突然覺得應(yīng)該讓那些水果繼續(xù)生長下去。
    重吉の秋の名詩をもうひとつ?!搐长蚊鳏毪丹韦胜兀窑趣膜嗡貥悚是伽颏堡校铯蚊坤筏丹四亭à停伽悉筏氦锁Qりいだすだろう〉(「素樸な琴」)。季節(jié)をめぐらす天地自然への深い畏敬(いけい)が、澄んだ言葉にこもっている。
    重吉還有一首關(guān)于秋的名詩?!霸谶@鮮艷之中/放一把素樸的琴/能忍受住這秋之美么/它也會不禁鳴聲伴奏吧”(素樸之琴)。這清澈透明的語言中蘊(yùn)含著的,無疑是對創(chuàng)造四季循環(huán)的天地自然的無限敬畏之情。
    八木 重吉(やぎ じゅうきち、1898年2月9日 - 1927年10月26日)は日本の詩人。
    短い詩が多いのが特徴であり、103篇をおさめた「貧しき信徒」には、10行を超えるものはたった2つしか見られない。中には「木に眼が生つて人を見てゐる」(冬)、「神様 あなたに會ひたくなつた」(無題)のような一行詩もある。この詩集には、長女·桃子が何回も登場するように、幸福な家庭生活を描いたものも散見される。