2016年日語(yǔ)等級(jí)文學(xué)作品閱讀賞析:《龍土?xí)斡洝?/h1>

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  •     龍土?xí)趣い膜皮庹l(shuí)も知る人のないぐらゐに、いつしか影も形もひそめしまつてゐる。そのやうに會(huì)はたとへ消滅したものであるにしても、會(huì)員であつた人々は殘つてゐなくてはならないが、さて自分が會(huì)員であつたと名のりを揚(yáng)げる特志者はまづ無(wú)いといつてよいだらう。然しどうやら會(huì)合のやうなものが存在して、そこへ初から出席した二三のものには、今日でもなほ幾許かの追懷の情が殘つてゐるはずである。
        その龍土?xí)瑢?shí)は終末期に臨んでゐて、卻て外面だけは賑やかに見(jiàn)えてゐた時(shí)代のことである。毎月のやうにふえる新顏が、こつそりと會(huì)の正體を覗きにくる。何ともさだかならぬこの會(huì)合が文藝革新に關(guān)する或野心を包藏して、文壇一般を脅かすかのやうに、側(cè)からは見(jiàn)られてゐたのである。自然主義の母胎もまさしく此處であり、更にまた半獸主義、神祕(mì)主義、象徴主義などの、新主義新主張がその奇怪な爪を磨くのもこの邊であり、そしてそれが龍土?xí)螜C(jī)構(gòu)でゝもあるかの如く、一部からは買(mǎi)ひかぶられ、また嫉視されてゐたをりがあつたことかとも思はれる。少くとも龍土?xí)袭?dāng)時(shí)の文壇からあやしまれてゐたにちがひない。
        かやうな外間の推測(cè)は無(wú)理もないとは云ふものゝ、それはまた誤解であつた。何故かと云ふに、會(huì)員の間には龍土?xí)蛏褫洡韦浃Δ藫?dān)ぎ□つて、何かにつけて地歩を占めたり、利を圖らうとするが如き考をもつたものはただの一人もなかつたからである。その上共同の利害のために會(huì)そのものを働かせた事實(shí)すらなかつたのである。龍土?xí)现^はば一の微小なる移動(dòng)的倶樂(lè)部の如きものであつたに過(guò)ぎない。その會(huì)合で文藝上の共通の新空氣が導(dǎo)入され、自由な思想の交流が行はれたことは眞實(shí)であつたとしても、會(huì)員たるものは、誰(shuí)に遠(yuǎn)慮會(huì)釋をするでもなく、それぞれの途を勝手に歩いてゐたまでゝある。各自が我儘放題な振舞をなしつゝも、殆ど十年間に亙つて毎月一囘は必ず席を同うして談?wù)摛?、興に乘りては美酒を酌み交はして一夕の歡を盡したことは、今から追想して見(jiàn)て、何としても一の不思議であつたと云ふより外はない。
        この氣儘な會(huì)員たちは、かくして十年の歳月を經(jīng)て、首尾よく龍土?xí)螇Pを飛び立つてしまつたのである。季節(jié)の折目が來(lái)たからである。
        明治三十五年から十年間といへば、明治革新、收獲の夕であると同時(shí)に更に播種の曉でもあつた多事多端な時(shí)代である。日露戰(zhàn)爭(zhēng)が丁度その眞中にはさまれてゐる。龍土?xí)悉长问觊gをからんで、動(dòng)搖と刺戟、興奮と破壞、麻痺倦怠等、あらゆる變調(diào)の中に生息して來(lái)たことにわたくしは深い意義を感ずるのであるが、この會(huì)も前に述べたやうな事情で、初めから會(huì)名が定つてゐたのではなかつたのである。
        そもそもの起りはかうである。話好きの柳田國(guó)男君がをりをり牛込加賀町の自邸で花袋、藤村、風(fēng)葉、春葉、葵(生田)諸君と、それに自分も加へられて招待された會(huì)合があつた。この會(huì)には柳田君の學(xué)友で、後に派手な政治の舞臺(tái)に活躍することゝなつた江木翼さんの顏も見(jiàn)えた。それから暫く經(jīng)つてその會(huì)を表に持ち出すことになつて、矢張同じ連中の顏ぶれで、その第一囘が麹町英國(guó)公使館裏通りのさゝやかな洋食店快樂(lè)亭で催された。明治三十五年一月中旬のことである。その時(shí)わたくしが肝入であつたといふのは、會(huì)場(chǎng)がわたくしの家に近かつたからでもある。この店は生田君などとは馴染が深かつた。その頃同じ區(qū)內(nèi)の元園町に巖谷小波さんの住居があつて、木曜會(huì)といふのが設(shè)けられてあつた。これも極めて自由な會(huì)合で、わたくしは會(huì)員ではなかつたが、年中開(kāi)放されてゐた巖谷さんの家の下座敷へしばしば出入したものである。玄關(guān)には澁い顏を時(shí)々思ひ出したやうににつこりさせる老執(zhí)事が機(jī)を控へてゐたことをおぼえてゐる。たまには一六先生の義太夫の聲が奧の間から傳つてくるのを聽(tīng)いたこともある。小波さんの門(mén)下であつた生田君として見(jiàn)れば、この界隈は綱張內(nèi)のことゝて、快樂(lè)亭を會(huì)場(chǎng)とするやう、わたくしにすゝめたものと思はれる。實(shí)際快樂(lè)亭は我々が會(huì)合を開(kāi)くには恰好な店で、場(chǎng)所も靜かであつた。坂路に寄せて建てた二階家で、食堂の方は一室ぎりであつたが、坂の上から平たく直に入れるやうになつてゐた。さういふ風(fēng)の建て方であるから、料理はすべて下から運(yùn)び上げるのである、入口には絡(luò)みつけた常春藤の青い房が垂れてゐた。表に向つた窓からは、折からの夕日に赤褐色に溫く染められた公使館の草土手とその上につづく煉瓦の塀が眺められるのみである。單調(diào)ではあるが俗ではない。雜駁からは遠(yuǎn)ざかつて、しかも卻て風(fēng)變りの趣がある。わたくしの眼底にはこの亭の印象がこびりついて忘じ難いものゝ一つとなつてゐるのである。
        第二囘の會(huì)合は赤城下の清風(fēng)亭で開(kāi)かれたが、新に眉山、秋聲の兩君も加はり、水彩畫(huà)家の大下藤次郎君の出席もあつたやうにおぼえてゐる。第三囘は風(fēng)葉、春葉兩君の幹事で、會(huì)場(chǎng)は鬼子母神境內(nèi)の燒鳥(niǎo)屋であつた。小山內(nèi)君が馳せ參じたのも多分この時(shí)であつたらう。會(huì)合は追々度數(shù)を重ねていつたが、その席上いつも音頭を取つたのは矢張柳田君であつた。纏つた話、新知見(jiàn)を開(kāi)くやうな話を柳田君は常に用意されてゐたのである。例へばポオル・ブウルジエの作物である。柳田君はその作物を讀んで來(lái)て、その梗概と讀後感に就て話をするといふやうな次第である。ブウルジエの小説はその後も殆んどわたくしとは沒(méi)交渉であつたが、その日柳田君の攜へてゐた短篇集は青色の表紙の本であつた。その事だけをわたくしは記憶してゐる。
        會(huì)合の場(chǎng)所は幹事の好みに隨つて變つたが、便宜がよかつたので多くは快樂(lè)亭を使つてゐた。そのうちに獨(dú)歩君が鎌倉(cāng)の廬を出ることになつた。矢野龍溪翁に招かれて、「近事畫(huà)報(bào)」の計(jì)畫(huà)に參加するためであつた。この畫(huà)報(bào)が間もなく日露戰(zhàn)の勃發(fā)により「戰(zhàn)時(shí)畫(huà)報(bào)」と改稱(chēng)されてから獨(dú)歩君の活躍は目ざましいものがあつた。自然我々の會(huì)合は獨(dú)歩君を迎へることになつて、急に賑はしくなつた。獨(dú)歩君は柳田君と共に談話の名人であつた。獨(dú)歩君の創(chuàng)作はおほむね小篇であり、人はその描寫(xiě)の筆致を褒めるが、作者はその筋を大抵二三度は友人に繰り返し語(yǔ)つたものである。推敲がその間に行はれたと想像するのは強(qiáng)ち不當(dāng)でもあるまい。然しわたくしは後に書(shū)かれて公にされた作品よりも、既に聽(tīng)いて感銘を受けてゐた談話の方をよろこんだ。そしてその談話の熟したものが獨(dú)歩君の創(chuàng)作であつたとすれば、そこに談話家の特徴を爲(wèi)すユウモアが活用されてゐることを怪しむべきではない。それが間髮を容れず打出されて一瞬の反省を與ふると同時(shí)に、その餘裕ならぬ餘裕が歪曲すべからざる客觀の事實(shí)を愈々鮮明ならしめてゐる。これがわたくしの發(fā)見(jiàn)であるかどうかは別として、柳田、國(guó)木田兩君の外に田山君もまたしたゝかの談話家であつた。會(huì)合は否が應(yīng)でも面白くならざるを得なかつたのである。然しこの頃となつても定まつた會(huì)名もなかつたぐらゐで、それが龍土?xí)确Q(chēng)せられるまでには、なほ多少の曲折を經(jīng)なければならなかつた。
        これより先、明治三十六年十月のことである。神田の寶亭で琴天會(huì)の發(fā)會(huì)があつた。巖村透さんの主唱であつたと思ふが、畫(huà)家、音樂(lè)家、その他新らしい藝術(shù)に縁のあつた人たちが集つた。巴里の藝術(shù)家の物に拘束されぬ生活に親しんで來(lái)た人々である。勿論この會(huì)に狂瀾怒濤を惹き起した二三の連中に就いては、わたくしは餘り知るところがなかつたのであるが、その放縱不覊の調(diào)子には全く醉はされてしまつたのである。實(shí)はわたくしもその會(huì)合の中に紛れこんでゐて、感激して、「琴天會(huì)に寄す」と題した小曲を作つて
        手弱女しのべば花の巴里の園生、
        朽ちせぬ光暢べたるみ空趁へば、
        なつかし、伊太利亞の旅路、精舍の壁。
        と拙い詩(shī)句を連ねて見(jiàn)たものゝ、それでは格別に上品すぎてゐた。わたくしは唯素直に藝術(shù)の自由を讚美して見(jiàn)たかつたまでのことである。
        琴天會(huì)は翌年になつて水弘會(huì)とか云ふ名稱(chēng)に改まつて、麻布は新龍土町の龍土軒で開(kāi)かれた。琴天會(huì)といつたのは琴平社天神社の縁日を、今また水弘會(huì)と稱(chēng)ふるのも矢張同樣の結(jié)合せで、水天宮と弘法大師の縁日を會(huì)日と定めるといふ灑落である。今度の會(huì)に巖谷小波さんや岡野知十さんの出席を見(jiàn)たのも珍らしかつた。巖谷さんはこの席上で「變客蠻來(lái)」と、達(dá)筆で額を一枚書(shū)いた。龍土軒がこの書(shū)をどう處置したか知るところがない。わたくしは豫て龍土軒發(fā)見(jiàn)の由來(lái)に就いて、噂には聞いてゐたが、この日始めて、さしも名だたる佛蘭西御料理の店の閾をまたいだのである。
        龍土軒發(fā)見(jiàn)といへば少し言草が仰山であるかも知れない。然しながらこの發(fā)見(jiàn)の主人公が飄逸な巖村透さんであつて見(jiàn)れば、そこにはいとど興味ある一條のいきさつが繋がつてゐるのである。巖村さんは再度の外遊から歸朝して未だ幾年もたゝなかつたことであらう。本場(chǎng)仕込のこの大通人の目さきに如何にも取すました看板がちらついた。新龍土町といへば三聯(lián)隊(duì)前で、決して風(fēng)雅ではない町である。表通りから少し引込んだ道の片側(cè)に、佛蘭西御料理と厚がましくも金文字の看板をあげてゐた店がふと目についた。巖村さんの住居はその頃芋洗坂下であつたから、この邊はさして遠(yuǎn)くもないところである。多分散歩のをりでもあつたのだらう。同伴者があつたとすれば、岡田さん、和田さんあたりであらう。巖村さんはその金文字の看板をちらと睨んで、「うそをつけ。一つ試めして、からかつてやらう」と、いきなりこの僭越至極なレストランのドアに手を掛けて飛込んだといふことは確に想像されていゝ。
        巖村さんは名家の出で、豁達(dá)で、皮肉で、隨分口も惡かつた。それでゐて世話好きで、親切氣があつて、いつでも人を率ゐてゆく勝れた天分があつた。
        龍土軒の女將は後になつてわたくしにこんなことを云つて聞かせた?!笌r村さんはほんとに氣さくで面白いお方と思つてをります。でも始めて宅の店へお出くださつた時(shí)は、御冗談だとは思ひましても、どんなにか腹を立てましたことやら。何しろかうでしよう。お迎へするとだしぬけに、お前のところは佛蘭西料理ださうだが、をかしいね、三聯(lián)隊(duì)の近所だから多分兵食だらうつて、かうおつしやるぢやありませんか。それではどの邊の御注文にいたしましようかとおたづねしますと、さうだな、どうせ兵食なら一番下等がよからうつて、どこまでも店を見(jiàn)縊つておいでゝすから、わたくしも餘りのことにむしやくしやして、料理場(chǎng)で主人にさう申しますと、主人もあの氣性で大層つむじを曲げましたが、店としてはどなたに限らず大切なお客樣といふことに變りはありませんから、思ひ直して、大奮發(fā)いたしましてこゝぞと腕をふるつた皿を默つて差上げますと、今度はどうでしよう。それがすつかりお?dú)猡苏伽筏啤ⅳ饯欷椁长膜沥趣い栅猡?、色々とお引立に預(yù)りました」と、かう云つたのである。
        この龍土軒の主人といふのがまた風(fēng)變りの人物であつた。少し耳が遠(yuǎn)かつた。自信の強(qiáng)い男で、自分を料理の天才とまで思ひつめたところが見(jiàn)えてゐた。メニユウの端に漢文くづしの恐ろしくむづかしい文字を列べて、日本人の口に適せぬ西洋料理は到底何等の効果をも收め難いものである。日本人の口に適するやうに心掛くると共に、正式の西洋料理たることを忘れてゐてはいけない。庖丁の妙技はそこにあるのだと、かう云ふやうな意味のことが自讚してあつた。主人のつもりでは、佛蘭西料理こそ日本人の口に適し、しかもそれが正式の西洋料理であることを云はうとしたものであらう。これは代筆でなく主人自作の文章であるといふことであつた。何かにつけて特色を出さうとする側(cè)の人物であつた。
        こゝの食堂の部屋は十疊と八疊ぐらゐの二間ぎりで、會(huì)合のをりは自然貸切のすがたであつた。一方の壁には當(dāng)時(shí)流行であつた刀の古鍔の蒐集が垂撥のやうな板に上から下へかけられて、それが二列になつてゐる。その傍には能樂(lè)の面も見(jiàn)え、がつしりした飾棚が適當(dāng)に配置されてゐる。他方には煖爐があり、入口の側(cè)には名士寄書(shū)きの屏風(fēng)が立てゝある。更に上部の壁面には岡田さんの描いた主人の肖像と、小代さんの白馬會(huì)初期の風(fēng)景畫(huà)が光彩を添へてゐる。かういふやうな體たらくで、調(diào)度や裝飾品が狹い部屋をいよいよ狹くしてゐた。この部屋はもともと日本室を直したものと見(jiàn)えて、天井が低かつたが、ごてごてしてゐたものゝ、どこかしつくりした空氣が漂つてゐて、居心地はわるくなかつた。
        鎌倉(cāng)から出て來(lái)た國(guó)木田君もいつしかこの店の贔負(fù)の客となつて、青山に墓參の歸り途には必ず家族を連れて立寄るといふことになつてゐた。我々の會(huì)合もその勢(shì)に押された擧句こゝに持出されたが、依然として無(wú)名の會(huì)であつたことが不滿足に思はれて、皆で相談の結(jié)果「凡骨會(huì)」として一會(huì)を催したことがある。龍土軒主人はこれをよろこんで、會(huì)日にはわざわざ獻(xiàn)立表を會(huì)員の數(shù)だけ印刷して置いたものである。その獻(xiàn)立表を見(jiàn)れば、はつきり明治三十七年十一月二十二日晩餐としるされてある。然し會(huì)名が「風(fēng)骨會(huì)」と變つてゐたので大笑ひをした。風(fēng)字は凡字の誤植であつたらうが、考へて見(jiàn)れば寧ろこの方が佳名であつた。
        この會(huì)名の骨字から思ひついたのでもあらうが、獻(xiàn)立がまた振ひすぎてゐた?!肝财榧t葉の墓」といふのが表に見(jiàn)えてゐる。何のことか全く見(jiàn)當(dāng)もつけかねたが、出された料理には一同が惘れてしまつた。第一食べ方からして分らない。一寸ばかりに切つた牛の骨が皿の中央に轉(zhuǎn)つて、それに燒パンの一片と竹篦が添つてゐる。主人の説明によれば、竹篦は卒堵婆に擬へたものであり、それを使つて、骨の膸を抉り出して、燒パンに塗つて食べるのだといふことである。これは餘りにもデカダン趣味に墮した嫌ひがあつたといふよりも、主人のふざけ方がちとあくどかつた。紅葉山人はその前年に歿してゐて、こゝは山人の墓域に程遠(yuǎn)からぬところである。骨の膸をトオストに塗つて食べるだけならば、それは食通のよろこびさうな乙なものであるにちがひない。しかるにこの始末で、會(huì)衆(zhòng)はしたゝか辟易したのである。
        たまたまそんな事柄があつたために大略分ることではあるが、凡骨會(huì)がいよいよ龍土?xí)雀膜蓼膜埔欢韦壬L(zhǎng)したのは翌三十八年の新春であつたらう。國(guó)木田君の畫(huà)報(bào)社關(guān)係からは小杉、滿谷、窪田、吉江、其他の顏も見(jiàn)えたが、武林、小山內(nèi)、中澤、平塚の諸君は、すでにその前から會(huì)盟に加つてゐただらうと思はれる。論客としての巖野君を迎へたのもその頃であつたらう。拔打に對(duì)手に懸つてゆくあの無(wú)遠(yuǎn)慮な遣り口が巖野君の身上であつた。あの眞似は一寸出來(lái)にくい。巖野君の唱道した剎那的燃燒の肉靈合致説は解り難かつたが、それをそのまゝ一々身邊に實(shí)行して見(jiàn)せたのである。それに對(duì)しては誰(shuí)もその善惡は云はれないのである。巖野君は肉靈の合致と云つて、決して一如とは云はなかつた。一如とか淨(jìng)化とか云ふことは通途の宗教の爲(wèi)すところである。合致とは肉が直ちに靈に食ひ入ることである。別言すれば肉が靈に依憑する狀態(tài)から現(xiàn)實(shí)の實(shí)踐が行はれることである。それは無(wú)意識(shí)の本能ではありえない。悲痛の肉である。かの無(wú)智の巫女における神憑りとは全く反對(duì)のものである。巖野君はこゝで一種の主觀主義を建立したが、それは矢張東洋哲理の系列を飛躍するものでもなく、恐らくはその源泉を天臺(tái)に掬んだものであらう。
        わたくしは巖野君の説について思はず談義を試みて、ふと氣がついて、今は後悔してゐるところである。巖野君一人がそんなに威張つて會(huì)を壓倒してゐたやうに見(jiàn)られる虞がないでもないからである。當(dāng)時(shí)の大勢(shì)は自然主義に歸してゐた。巖野君とても自然主義を必ずしも排するものではなかつた。ただその無(wú)技巧の暴露的描寫(xiě)を論ずるだけでは不徹底だと突込んでゐたのである。そんな風(fēng)に勝手に論議が行はれたと云つても、會(huì)の席上では、食卓を同うするが如く相互に共感する餘裕を失はなかつたから、論議とは云へ、それは一の談笑に過(guò)ぎなかつた。
        會(huì)は大抵夕景の五時(shí)頃に開(kāi)かれて深夜に及んだ。その間興に乘じて、生田君や平塚君が自慢で新詩(shī)の獨(dú)唱をやつたこともあり、さういふ折には若菜集の醉歌などがよく歌はれたし、武林君が一度杜牧の江南春を思ひきり聲を張りあげて吟誦したこともあつた。龍土軒主人もまたはしやいで、珍らしい洋酒をリキユウグラスに注ぎ□つて、それを寄附するといふのである。いつであつたか、蝮蛇酒といふのをすゝめられたことがある。茴香のにほひの高かつたことをいまだにおぼえてゐる。
        そのうちに會(huì)はまた白鳥(niǎo)、葉舟、江東、秋骨の諸君を容れて急に脹らんできた。西本、柴田兩君の出席も殆ど同時(shí)期であつたやうに思はれる。龍土?xí)蚊瑥Vく知れわたると共に、この會(huì)が文界の牛耳を執(zhí)るものゝやうに訝かられだしたのも、當(dāng)時(shí)の狀況から推せば強(qiáng)ち無(wú)理とも思はれないのである。明治三十八年といへば、島崎君が足掛け七年目に、「破戒」を抱いて、信州の山を下つて來(lái)て、西大久保の家に落著いた記念すべき年である。それがこの年の四月のことであつた。會(huì)は更にこの文星を迎へて足並を揃へたわけである。わたくしは囘顧して見(jiàn)て、こゝらがまづ會(huì)として花ではなかつたかと考へてゐる。
        人數(shù)が殖えるやうになつてからは龍土軒では少し手狹で窮屈に感ぜられてきた。烏森や、鮫洲や、後にはしばしば柳橋で大會(huì)が催されたのも、そんな理由が多少はあつたかも知れない。一遍田山君が幹事で、愛(ài)好地の利根川べりの川股で盛んな會(huì)が開(kāi)かれたことがある。田中屋といふ土地の料亭の別宅で利根川の堤に接して建てられた一軒家が、その日の會(huì)場(chǎng)であつた。田山君はよくこの家に滯留して製作に耽つたといふことである。こゝが即ち田山君の筆に上つて知られてゐる「土手の家」である。田舍藝者を相手に一晩中騷いで一泊した。小杉未醒君が醉つたまゝ、*になつて、川に飛びこんで、對(duì)岸との間を往復(fù)して、われわれを驚かした。明治三十九年十月七日のことである。
        國(guó)木田君が確か「疲勞」を書(shū)いてた頃である。國(guó)木田君は明治四十一年六月に茅ヶ崎の南湖院で病歿したのであるから、その前年の初冬の時(shí)分ではなかつたかと思ふ。例會(huì)が赤坂の東京亭で開(kāi)かれたことがある。撞球場(chǎng)を兼ねたレストランで、玉突に凝つてゐた巖野君の馴染の場(chǎng)所である。この會(huì)日に國(guó)木田君が珍らしく出席した。畫(huà)報(bào)社の事業(yè)で過(guò)勞に陷り、それを引ついだ獨(dú)歩社も戰(zhàn)後は思はしくなく、遂に失敗に歸して、唯贏ち得たものは不治の病のみであつた。國(guó)木田君はどう考へたか、近くもない郊外の隱棲からわざわざ車(chē)を雇つてこゝに乘りつけたのである。夜氣は冷やかであつたし、病氣柄の發(fā)熱はつづいてゐたのであるから、これは非常な冒險(xiǎn)であつたと云つてよい。會(huì)友に對(duì)して元?dú)猡蜓bふだけの努力にも堪へられなかつたことゝ思はれる。ひどく寂しくまた寒さうに見(jiàn)えた。巖野君はこの時(shí)アブサンを持參して來(lái)てゐたが、國(guó)木田君はその強(qiáng)烈な酒の一盞を水も割らずに飮み干した。そして龍土?xí)藝?guó)木田君の列席を見(jiàn)たのも、この夜が後となつたのである。
        明治四十一年には國(guó)木田君が逝き、また川上眉山君が不慮の死を遂げた。
        とかくするうちに、「龍土?xí)庠绁渐磨驻纬鰵い馈工仍皮赵u(píng)判が立つやうになつた。會(huì)が衰へて來(lái)たことは事實(shí)として、その原因の一つにジヤアナリズムの波の浸入といふことが擧げられる。然しさう大袈裟に詮索するまでのこともない。何故かとなれば、龍土?xí)悉猡趣猡葻o(wú)心であつたからである。無(wú)心のうちにも小さな魂だけは包藏してゐたからである。問(wèn)題はその小さな魂の行方である。わたくしはこゝで臆測(cè)して多言を費(fèi)したくはない。若し果してソツプの出殼であるなればまだまだ功利的の處置に委ねられやう。失はれた魂であつて見(jiàn)れば手のつけやうがない。
        龍土?xí)猡fる狀態(tài)で、久しく麻痺の徴候に陷り、進(jìn)行が遲々となつてゐたものゝ、長(zhǎng)谷川天溪君が先立つて英吉利に向ひ、後れて島崎藤村君が佛蘭西への旅に出發(fā)する日に遇つて、兩君の行を送るだけの力はなほ幾らか餘してゐたものゝやうに考へられる。島崎君の外遊は大正二年春のことであつたから、龍土?xí)谓K幕が完全におろされたのも恐らく同時(shí)であつたかも知れない。わたくしは既に文壇に遠(yuǎn)ざかつてゐたことであるし、その後のことは何一つ記憶してゐない。
        (大正二年。昭和十三年)