まえがき

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財(cái)団法人日本文化研究所を、私たちが創(chuàng)立したのは、第一に日本人じしんのためであった。その目的は、日本人じしんが地球大の視野で日本文化を考え直し、われわれのアイデンティティを確認(rèn)してみたい、ということである。むろん、このことと海外への日本文化の紹介?普及の仕事とは、貨幣の裏と表の関係にある。しかし、われわれが世界的視野で日本を見る“眼”を持たない限り、自分たちの文化を外に持ち出しても、理解される度合はきわめて少ないだろう。
    昭和五十年秋の天皇訪米にさいして、広報(bào)の一部を擔(dān)當(dāng)したあるアメリカ人が、つぎのようにいった。「ごく普通のアメリカ人に、知っている日本人の名前をあげてみろといって、三人出てくれば上出來。クロサワ、オノ?ヨーコ、そしてトージョーかな。」この観察はあっているし、このような日本についての世界の無知?無関心は、できることならば是正するに如くはない。
    この四年ちかくの間、私たちの英文版「日本文化への招待」(アラビア語版に重訳)、「百の日本の事物誌」の刊行などの仕事をしてきた。いずれも數(shù)十名の日本人以外筆者に、日本文學(xué)ないし文學(xué)に関するそれぞれのテーマについて執(zhí)筆を依頼し、編集したものである。私たちは、まず日本をよく知る有能な外國人との協(xié)同により、その知識と個(gè)性を生かしながら日本を外國に知らせる、という方法を選んだ。
    新たに刊行されたこの本は、“Guides to Japanese Culture”の日本語版テキストである。人々が日本の文化を総體として知り、把握するのに役立てるため、各分野の“名著”を選び、要約、解説した英文版をつくろうーーと私たちが企畫したのは、三年ほど前のことであった。以後、各界の識者にも「日本文化を知るために外國人に読んで貰いたい三冊の本」という、ある意味では亂暴なアンケートを求め、百二十名の方々から有意のご返事を頂いた。又KBS編集になる「日本研究のための標(biāo)準(zhǔn)選定図書目録」も、ひじょうに參考になった。
    日本を知る(ないし知らせる)ために、なにが“名著”であるかは、むろんたいへんむつかしい問題である。私たちは最終的に、自然と人間、日本語、信仰と生活、意識と思想、人間関係、文學(xué)、伝記、歴史、蕓術(shù)蕓能、日本人が見た世界、の十章に分ち、四十五冊を選んだ。その中に宗教、哲學(xué)、社會の獨(dú)立した章が無いのは、象徴的でもあり、不審の出るところかも知れない。
    無論、それらを無視したわけではなく、例えば神道の核心のある部分に觸れる柳田國男「日本の祭り」、また鈴木大拙「禪と日本文化」を宗教の分野に組み込むことは出來ないわけではない。しかし、宗教Religionという表現(xiàn)を用いるには幾分なまなまし過ぎるきらいもある。そのことは、又違った意味でにほんの「哲學(xué)」や「社會」を扱う場合にもいえることで、こちらは明治百年の日本の「學(xué)問」の主たる展開が、西歐を範(fàn)としてこれを祖述し、あるいは追いかけるかたちで行われた事実と深い関係がある。丸山真男氏は「日本の思想」の中で「日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文化史の研究にくらべてさえ、いちじるしく貧弱である」と、この事情に觸れている。
    もうひとつ本書から引用すれば、「ことばと文化」のなかで、鈴木考夫氏は「日本語を、そして日本的現(xiàn)実をはかる尺度は、日本語それ自體、日本的現(xiàn)実それ自體に求められるべきだ」と述べているが、それは日本の文化の一分野である宗教、哲學(xué)、社會などの分析においても、同様にいえるはずである。私たちがここに選んだのは、なによりも日本の文化に內(nèi)在する法則を発見し、敘述した著作である。中村元「日本人の思惟方法」、矢代孝雄「日本美術(shù)の特質(zhì)」などが、まさにそのような代表作であることは衆(zhòng)目の一致するところだろう。
    當(dāng)然のことながら、英文に翻訳するための日本文の要約テキストづくり、ならびに翻訳には、ひじょうに苦心した。それは、日本文を日本語で要約して日本人に伝達(dá)する作業(yè)と較べるなら、數(shù)倍のエネルギーと、言わせて貰えるなら東西比較の眼識ならびに大膽な把握の仕方が必要であった。ある有能なアメリカ人翻訳者は「日本人の(日本語の)論文というより連歌だ」と名句を吐いたものだが、日本人の「論文」はえてして“情感の論理”でつながっており、またその用語には閉鎖てきなサークルでしか通用しない表現(xiàn)、特に輸入された外國語(ないしその漢語訳)が日本的に変容している場合、日本人同士でならなんとなく解っても、翻訳するとほとんど意味の失われる例もすくない。また、英語(及びインド?ヨーロッパ語)では、ひとつのパラグラフの構(gòu)築が、きわめて大切とされるが、日本語はその點(diǎn)ルーズである。
    ここに収めた日本文テキストはつぎのようにしてつくられた。先ず英文翻訳を前提として、村上兵衛(wèi)が責(zé)任者としてまとめたものを、英語を母國語とする日本學(xué)者及び練達(dá)の翻訳家に英訳を依頼し、內(nèi)容について研究所において討論し、訳者のブラッシュアップを経て、更にミシガン大學(xué)のE.G.サイデンステッカー教授が厳密な校閲をおこなった。そして、翻訳の過程で起こった多くの問題を日本文テキストに反映させながら、若干の補(bǔ)正を加え、最終的に原著の內(nèi)容ならびに文體と照合して、再び可能なかぎり原著のかおりを伝えるように工夫した。このテキストを英文と対照するとき、あまり違和感無く対応すると思うが、若干、離れた部分の殘ったのは以上の結(jié)果である。それは日本語と英語の相違であると同時(shí)に、日本人の(日本語による)発想及び展開の仕方と、英語國民のそれとのくいちがいで、さいごまでぴったりとは調(diào)整できなかった部分である。
    研究所では、初期の計(jì)畫では、英文のみを刊行するつもりであった。ところが、進(jìn)行中、日本研究者、とくに初心者のために、日本文のテキストを是非加えてほしいという海外からの要望が強(qiáng)く出された。いっぽう、日本人が日本文化について外國人に語ろうとするとき、どうもどもりがちになるのは、語學(xué)以前に、またメンタリティの部分をさしひいても、どうやら日本人じしんによる日本文化についての自己確認(rèn)がなされていないーーという基本的な事情を、私たちは重要視した。
    このテキストは、その雙方からの要請に応えようとするものである。したがって、この本は、英語版序文に述べられているように、海外の日本研究者にとって有効であるばかりでなく、日本人が世界の中における(あるいは世界にむかって)自分たちの文化を把握し、主張するためにも便利な本になっている、と思う。少なくとも私たちは、そのことをつねに念頭において制作した。
    さいごに、この本を上梓するにあたって、まず恩恵を受けた原著の著者の方々はもとより、このプロジェクトに參加した翻訳者、またそれぞれの専門から助言を惜しまれなかった方々に対し、心からあつく御禮を申し上げる次第です。