「ジョン?萬(wàn)次郎」

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江戸時(shí)代末期から明治時(shí)代に至る時(shí)代は、日本が封建國(guó)家から近代國(guó)家へ移行する興味深い段階である。1840年頃の日本はまだ鎖國(guó)時(shí)代で、日本人が外國(guó)に出ることは許可されていず、外國(guó)との交際は一切禁止されていた。その頃四國(guó)のある村に、萬(wàn)次郎という若者がいた。彼は魚(yú)をとって暮らしていたが、ある日暴風(fēng)雨のために、誰(shuí)も住んでいない島に流されてしまった。島の近くを通る船も時(shí)にはあったが、どの船も彼に気がつかなかった。
    半年くらいしたある日、萬(wàn)次郎はアメリカの船に救助された。船長(zhǎng)は、萬(wàn)次郎は非常に頭が良いが日本で教育を受けたことがない、ということを知り、是非アメリカで教育を受けさせたいと思った。萬(wàn)次郎に相談したところ、萬(wàn)次郎も同意したので、一緒に連れて帰った。船長(zhǎng)の家はマサチューセッツのフェア?ヘブンという町にあり、萬(wàn)次郎はそこで學(xué)校に入り、日本人として初めて西洋の進(jìn)歩した教育を受けることになった。その頃のアメリカは、平等の思想が、十分には広まっていず、人間の間に差別があり、特に東洋人を低く見(jiàn)る傾向があったために、萬(wàn)次郎を野蠻な人間のように取り扱う人々やさも人間でないかのように無(wú)視する人々がいた。しかし、勤勉な萬(wàn)次郎は彼なりに一生懸命勉強(qiáng)し、優(yōu)秀な成績(jī)をとった。彼は十年近くアメリカにいたが、船長(zhǎng)夫婦の個(gè)人的な信頼を受ければ受けるほど、四國(guó)の田舎で一人で暮らしている母親のことを懐かしく思い出すようになり、ついに日本に帰る決意をした。
    當(dāng)時(shí)外國(guó)に出た者は幕府の厳しい調(diào)査を受けることになっていたので、萬(wàn)次郎も日本に戻った時(shí)、いろいろ調(diào)べられた。法律上十分な理由がない場(chǎng)合は死刑になるのが普通だったが、彼の場(chǎng)合は漂流という避けられない事情だったうえに、幕府のなかに西洋の文明?文化に関心を持ち、萬(wàn)次郎の話を聞きたがった人がいたので、彼は自由になった。
    彼は、自分自身のアメリカでの経験からいって、日本の技術(shù)的水準(zhǔn)が高くならない限り、この世界の複雑な競(jìng)爭(zhēng)において日本の発展はあり得ないと強(qiáng)く認(rèn)識(shí)していたので、幕府の指導(dǎo)者や大名達(dá)に、開(kāi)國(guó)して西洋の発達(dá)した文明?文化を輸入する必要性を説明せずにはいられなかった。彼の主張を無(wú)意味なことと見(jiàn)なした人もいたが、日本の將來(lái)にとって何と貴重な話だろうと感心して、萬(wàn)次郎に同調(diào)する進(jìn)歩的な大名や知識(shí)人も少なくなかった。
    萬(wàn)次郎は、一方においては、開(kāi)國(guó)の重要性を説明し、日本の近代化に盡くしたが、他方においては、西洋の書(shū)物を何冊(cè)も日本語(yǔ)に翻訳して西洋の近代科學(xué)を普及させた。また、明治維新になってからは、東京大學(xué)で英語(yǔ)を教えながら、自分の経験を基にして、新しい日本の指導(dǎo)者となるべき若者達(dá)に、近代國(guó)家として日本が生き延びねばならぬということを熱心に語(yǔ)った。