知られたくないこと

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俺は2年目のサラリーマンだ。
    ただ,普通の(という言葉の信憑性自體が俺にとっては怪しいものだったが)2年生に比べて,俺には特殊な事情があった。
    俺にはどうも「鬱」のケがあるらしいのだ。
    とにかく體がだるくなる時がある。
    しばしば頭が痛くなり,肩で息をしながら仕事をする事態(tài)も珍しくはないのだ。
    ある日どうしても體が動かなくなり,有休をとって病院に行くと,體はどこも悪くない,精神的なものじゃないのか,と言われた。
    仕方がないから神経科に行ったら,「うつ病」と思いっきり診斷され,薬と「1週間休みなさい」という診斷書をもらった。
    1週間明けて帰ってきてみると,課の人事?lián)敜蝹S長が不機嫌そうな顔でソファに腰を下ろしていた。)
    聞くと,今日面接に來るはずのバイトさんが,約束の時間から20分経っても來ないので苛立っているんだそうだ。
    「大川さんのタイプじゃないかと思うんだけど,どう?」
    人事?lián)敜温殕Tのおばちゃんが,まるで見合い寫真でも見せるようにその人の履歴書を見せた。)
    その寫真は白黒で,しかもプリントの色が濃かったものだから,どんな顔をしているのかさっぱり分からなかった。
    そもそも,俺はあまりその時女に食指を伸ばそうという気にもなれていなかった
    女と布団とどっちと結婚したいですか,と聞かれたら迷わず布団,と答えてしまいそうだった
    「ふうん,そうですねえ」
    生返事で答えた所で,ガラガラとドアの開く音がした。
    件の彼女だった。
    顔はよく見えなかった。
    ただ,悪びれる様子もなく平然と面接に臨んでいた。
    へえ。
    俺はちょっとだけ感心した。
    彼女が正式にバイトとして働きに來たのは,3日後からだった。
    俺が課の部屋の隅っこのOA室でパソコンを叩いていると,不意に彼女がやってきた。
    俺は彼女を橫目で見た。
    顔が小さく,背が高く,まるでモデルのような,今風の風體だった。
    ただ,俺はさっきも言った通り鬱だったから,彼女についてどうこう感想を抱くような事はなかった。極端なことを言うと,そういったことに気を回すことさえ面倒くさかった。俺はこの仕事をとっとと終わらせて何も文句を言われることなく5時に退社することしか考えていなかったから,彼女の存在はむしろ邪魔でさえあった。)
    「大川さん」
    彼女は,不意に聲をかけてきた。
    「ここ分からないんやけど,どうしたらええん?」
    彼女は関西弁のため口で,そう話しかけてきた。
    質問自體はパソコンの簡単な操作法に屬することで,俺は難なく彼女の疑問に答えることが出來たが,俺は一風変わった違和感にも似た気持ちを彼女に抱いていた。
    彼女が俺より一つ年上なのは,履歴書を見て知ってはいた。
    しかし,今まで來たバイトさんの中で,腐っても正職員である俺に,初対面でいきなりため口で物を言って來た人はいなかった。
    しかし俺は,そのことに対して,別に失禮な,とかの不快感は感じなかった。
    むしろ逆に,ごく自然に,そのことを,彼女の俺に対する親愛の情ととった。
    俺はその時,パソコンの話とかを一言二言彼女と話した。
    その時の俺は,明らかに今までの「鬱」の俺とは違っていた。
    俺は課の中で一番若かったから,課の仕事以外にも,いろいろと雑用を任される機會が多かった。
    そして,バイトさんもそれを手伝って一緒に雑用をすることが多かった。
    俺と彼女は,必然的に一緒に行動することが増えた.
    俺は彼女と色々な話をした。
    その多くは,仕事とは関係ないことだった。
    仕事と関係のある二人の話題―それは,彼女の今の職場に対する不満だった。
    どうして女性ばかりがお茶くみをしなければならないの。
    どうして私ばかりがコピー取りをしなければならないの。
    大體この職場の人って,何だか暗いし,細かいことばっかり言うし,どうしてもなじめないんよねえ,あたし。
    こうやって人のいないところで職場の不満をぶちまける彼女に,俺は,まあ職場ごとに雰囲気があるから仕方ないよ,とか,あの人たちだって決して悪い人達じゃないんだから,と逆にフォローをしてやるのが常だった。
    彼女は言いたい事を言ってしまうと,顔を近づけ,片目を閉じて口をすぼめ,人差し指を一本上げて,シーをして言うのだ。
    「これは大川さんやから言うんやからね」
    俺と彼女が親密になりつつあることは,狹い職場のことだから多くの人が気付いていた。
    勿論職場で彼女の前でそういう話が出ることはなかったが,ある時年の近い先輩と飲みに行った時は,早く彼女をデートに誘わな,とせかされたし,課の有志でのみに行った時は,隣の係の係長に,好きなんやったら応援するで,と冷やかされた。
    確かによくよく見れば,彼女はモデル體型だったし,顔も美しかった。遊び好きな所も何となく合いそうだ。
    誘ってみたい。
    戀だの何だの,そういったものを抜きにしても,一度遊んでもらえたら。
    そういう意識が少しずつ自分の中で高まっていったことは,紛れもない事実だった。
    いつしか,嫌で嫌で仕方なかったはずの職場に行く足取りが軽くなっているのを感じた。
    それが彼女のおかげであることもまた,紛れもない事実だった。
    なあ,下城さん,飲みとかよく行くん?
    んー,まあ,コンパとかは多いかな
    飲めるの?
    あんまり…まあ,人並みには飲めるかな。
    人並み言う奴に限ってほんまはめちゃめちゃ飲めるんやで。今度飲み比べせえへんか。
    (苦笑)
    カラオケとか好き?
    んー,人が歌うのを聞いてるのは好き。自分で歌うのは苦手やね。
    そうか,じゃあ今度聞かせたるわ。俺,カラオケで笑かすの得意やねん。