関西弁

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この言葉は注意が必要です。世間一般の捉え方としてはおそらく、「滋賀、京都、大阪兵庫(kù)、奈良 和歌山と、三重の一部で用いられている言葉」ということになるのでしょうが、これらは単に京阪式アクセントが使われている地域という基準(zhǔn)だけで括られている嫌いがあります。
    用いられる?yún)g語(yǔ)や、言い回しの點(diǎn)なども含めて考えると、実のところ近畿には「関西弁」という一語(yǔ)で言い表せるほど統(tǒng)一された言葉はない、と言わざるを得ません。
    京阪神間ですらお互いに違和感を覚えるほど言葉に差があり、事実京都で育った私にとって、大阪や神戸の方の言葉は似非関西弁に聞こえることすらあります。
    こういった現(xiàn)実を踏まえ、當(dāng)サイトではこの「関西弁」という言葉の使用を極力避けてあります。
    「京阪語(yǔ)」
    京都大阪間に共通する言い回しや言葉などの総稱。この言葉には、「滋賀、兵庫(kù)、奈良、和歌山などでは、こういう言い方をせぬかもしれぬけれど」という含みがあります。
    「京言葉/京ことば」
    「そうどすえ」「よろしおす」などの言い回しに代表される言葉で、他府県の方が「京都の言葉」と聞いて真っ先にイメージなさるものがこれです。元は京都の下町で多く話された言葉ですが、現(xiàn)在では祇園の他、西陣辺りの舊家にわずかに殘る程度といいます。
    當(dāng)サイトには「京言葉」「京ことば」両方の表記が混在していますが、特に意図して使い分けているわけではありません。
    「京都言葉京都語(yǔ)」
    「京ことばと呼べるほど格式高くはないが、それでも京都的特徴を多く有する言葉」という意味で用いてあります。
    「共通語(yǔ)」と「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」
    「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」
    文法的にも音韻的にも曖昧な點(diǎn)や表現(xiàn)の揺れなどがほとんどなく、その國(guó)の言語(yǔ)の理想形模範(fàn)形と呼ぶに相応しい言葉のことを指します。
    簡(jiǎn)単に言えば、「?jìng)€(gè)人差や地域差が一切なく、かつ誰(shuí)が聞いても不快感を感じることのない上品な言葉」が「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」です。
    世界的に見て、必ずしも特定の地域(首都など)の言葉がそのまま「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」に選ばれるとは限らず、むしろ下記の「共通語(yǔ)」に學(xué)術(shù)的な修正を加えたものが「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」とされるケースも少なくないようです。
    「共通語(yǔ)」
    こちらは単に、「その國(guó)で広く通じることを目的とした言葉」のことで、各方言の公約數(shù)的な言葉のことを指します。
    言い換えれば、「少々個(gè)人差や地域差があろうとも、ちゃんと相手に通じて、相手に不快感を與えない程度の品があれば問題なし」という言葉が「共通語(yǔ)」です。
    これらの點(diǎn)を踏まえると、今の日本語(yǔ)に「共通語(yǔ)」はあっても、「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」などというものはないという事がお分かりいただけるのではないでしょうか。
    太平洋戦爭(zhēng)前には、きちんとした標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)(初期には“普通語(yǔ)”とも呼ばれていた)を策定しようという動(dòng)きもそれなりにあったようですが、今やそういう動(dòng)きは皆無(wú)に等しいようで、國(guó)語(yǔ)學(xué)の世界でも、現(xiàn)代の日本語(yǔ)に標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)と呼べるほど規(guī)範(fàn)性の高い言葉はないという考え方が主流のようです。
    今日では「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」のかわりに、「共通語(yǔ)」という言い方を用いることが推奨されています。
    しかし現(xiàn)実には、テレビ?ラジオ?雑誌などに代表される多くのマスメディア*のみならず、辭書の中にすら、いまだに「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」という言葉を使っているものがある始末で、かの「広辭苑」も第三版までは、國(guó)文法概要でこの言葉を使っていました(第四版以降は「共通語(yǔ)」に改められています)。
    とはいえ「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」という言葉には、方言を無(wú)価値なものとして十把一絡(luò)げに扱い、日本語(yǔ)を「標(biāo)準(zhǔn)語(yǔ)」対「非標(biāo)準(zhǔn)であるところの方言」という対立軸で捉えていた時(shí)代の価値観が強(qiáng)く滲み出ているようで、私個(gè)人的にはどうにも好きになれぬのです。
    それよりもまず各地の方言ありきで、そこから公約數(shù)的な言葉たちが寄り集まって「共通語(yǔ)」なるものが生まれたという考え方のほうが好感が待てますし、何より日本語(yǔ)の現(xiàn)狀をちゃんと反映しているように思われますので、當(dāng)サイトでは「共通語(yǔ)」という表現(xiàn)を使うことにしています。