メロスは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐 ( じゃちぼうぎゃく ) の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して來た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた 此 ( こ ) のシラクスの市にやって來た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、內(nèi)気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、 花婿 ( はなむこ ) として迎える事になっていた。結(jié)婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって來たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは當(dāng)りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全體が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって來た。路で逢った若い衆(zhòng)をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に來たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった 筈 ( はず ) だが、と質(zhì)問した。若い衆(zhòng)は、首を振って答えなかった。しばらく 歩いて ( あるいて ) 老爺 ( ろうや ) に逢い、こんどはもっと、語勢を強(qiáng)くして質(zhì)問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質(zhì)問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低聲で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します?!?BR> 「なぜ?xì)ⅳ工韦??!?BR> 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ?!?BR> 「たくさんの人を殺したのか?!?BR> 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお 世嗣 ( よつぎ ) を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を?!?BR> 「おどろいた。國王は亂心か?!?BR> 「いいえ、亂心ではございませぬ。人を、信ずる事が出來ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質(zhì)ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました?!?BR> 聞いて、メロスは激怒した?!?呆 ( あき ) れた王だ。生かして置けぬ?!?BR> メロスは、単純な男であった。買い物を、背負(fù)ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、 巡邏 ( じゅんら ) の警吏に捕縛された。調(diào)べられて、メロスの懐中からは短剣が出て來たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは靜かに、けれども威厳を 以 ( もっ ) て問いつめた。その王の顔は 蒼白 ( そうはく ) で、 眉間 ( みけん ) の 皺 ( しわ ) は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、 憫笑 ( びんしょう ) した?!甘朔饯螣oいやつじゃ。おまえには、わしの孤獨(dú)がわからぬ?!?BR> 「言うな!」とメロスは、いきり立って 反駁 ( はんばく ) した?!溉摔涡膜蛞嗓Δ韦?、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる?!?BR> 「疑うのが、正當(dāng)の心構(gòu)えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ?!贡┚下渲い?呟 ( つぶや ) き、ほっと 溜息 ( ためいき ) をついた?!袱铯筏坤盲?、平和を望んでいるのだが?!?BR> 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か?!工长螭嗓膝幞恁工靶Δ筏??!缸铯螣oい人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、 下賤 ( げせん ) の者?!雇酩?、さっと顔を挙げて報いた?!缚冥扦?、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奧底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、 磔 ( はりつけ ) になってから、泣いて 詫 ( わ ) びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は 悧巧 ( りこう ) だ。 自惚 ( うぬぼ ) れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、 ―― 」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を與えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結(jié)婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って來ます?!?BR> 「ばかな?!工缺┚?、 嗄 ( しわが ) れた聲で低く笑った?!袱趣螭扦猡胜?噓 ( うそ ) を言うわい。逃がした小鳥が帰って來るというのか?!?BR> 「そうです。帰って來るのです。」メロスは必死で言い張った?!杆饯霞s束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質(zhì)としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って來なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい?!?BR> それを聞いて王は、殘虐な気持で、そっと 北叟笑 ( ほくそえ ) んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って來ないにきまっている。この噓つきに 騙 ( だま ) された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう 奴輩 ( やつばら ) にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日沒までに帰って來い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて來るがいい。おまえの罪は、永遠(yuǎn)にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる?!?BR> 「はは。いのちが大事だったら、おくれて來い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、 地団駄 ( じだんだ ) 踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、 佳 ( よ ) き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で 首肯 ( うなず ) き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到著したのは、 翌 ( あく ) る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて來る兄の、 疲労 ( ひろう ) 困憊 ( こんぱい ) の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質(zhì)問を浴びせた。
「なんでも無い?!攻幞恁工蠠o理に笑おうと努めた?!甘肖擞檬陇驓垽筏苼恧?。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結(jié)婚式を挙げる。早いほうがよかろう?!?BR> 妹は頬をあからめた。
「うれしいか。 綺麗 ( きれい ) な衣裳も買って來た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて來い。結(jié)婚式は、あすだと?!?BR> メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調(diào)え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結(jié)婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出來ていない、 葡萄 ( ぶどう ) の季節(jié)まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出來ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強(qiáng)であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結(jié)婚式は、真晝に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲(yún)が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狹い家の中で、むんむん蒸し暑いのも 怺 ( こら ) え、陽気に歌をうたい、手を 拍 ( う ) った。メロスも、満面に喜色を 湛 ( たた ) え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ亂れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日沒までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優(yōu)しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、噓をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ?!?BR> 花嫁は、夢見心地で 首肯 ( うなず ) いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、寶といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ?!?BR> 花婿は 揉 ( も ) み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも 會釈 ( えしゃく ) して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寢過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の臺に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出來た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の *佞 ( かんねい ) 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名譽(yù)を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大聲挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を橫切り、森をくぐり抜け、隣村に著いた頃には、雨も 止 ( や ) み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって來た。メロスは 額 ( ひたい ) の汗をこぶしで払い、ここまで來れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き著けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの 呑気 ( のんき ) さを取り返し、好きな小歌をいい聲で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達(dá)した頃、降って 湧 ( わ ) いた災(zāi)難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は 氾濫 ( はんらん ) し、 濁流 ( だくりゅう ) 滔々 ( とうとう ) と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 木葉微塵 ( こっぱみじん ) に 橋桁 ( はしげた ) を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、聲を限りに呼びたててみたが、 繋舟 ( けいしゅう ) は殘らず浪に 浚 ( さら ) われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した?!袱ⅳ?、 鎮(zhèn) ( しず ) めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真晝時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き著くことが出來なかったら、あの佳い友達(dá)が、私のために死ぬのです?!?BR> 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、 煽 ( あお ) り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負(fù)けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘爭を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと 掻 ( か ) きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに 憐愍 ( れんびん ) を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出來たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出來ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊(duì)の山賊が躍り出た。
「待て?!?BR> 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ?!?BR> 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ?!?BR> 「その、いのちが欲しいのだ?!?BR> 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
山賊たちは、ものも言わず 一斉に ( いっせいに ) 棍棒 ( こんぼう ) を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を毆り倒し、殘る者のひるむ 隙 ( すき ) に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、 流石 ( さすが ) に疲労し、折から午後の 灼熱 ( しゃくねつ ) の太陽がまともに、かっと照って來て、メロスは幾度となく 眩暈 ( めまい ) を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出來ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も 撃ち倒し ( うちたおし ) 韋駄天 ( いだてん ) 、ここまで突破して來たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、 稀代 ( きたい ) の不信の人間、まさしく王の思う 壺 ( つぼ ) だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身 萎 ( な ) えて、もはや 芋蟲 ( いもむし ) ほどにも前進(jìn)かなわぬ。路傍の草原にごろりと寢ころがった。身體疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな 不貞腐 ( ふてくさ ) れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて來たのだ。動けなくなるまで走って來たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を 截 ( た ) ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も盡きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を 欺 ( あざむ ) いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運(yùn)命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本當(dāng)に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲(yún)を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき寶なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで來たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて來たのだ。私だから、出來たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負(fù)けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて來い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合點(diǎn)して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠(yuǎn)に裏切者だ。地上で最も、不名譽(yù)の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる 哉 ( かな ) 。 ―― 四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、 潺々 ( せんせん ) 、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、巖の裂目から 滾々 ( こんこん ) と、何か 小さく ( ちいさく ) 囁 ( ささや ) きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で 掬 ( すく ) って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉體の 疲労 ( ひろう ) 恢復(fù) ( かいふく ) と共に、わずかながら希望が生れた。義務(wù)遂行の希望である。わが身を殺して、名譽(yù)を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日沒までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、靜かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出來るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、 跳 ( は ) ねとばし、メロスは黒い風(fēng)のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を 蹴 ( け ) とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と 颯 ( さ ) っとすれちがった瞬間、不吉な會話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ?!工ⅳ?、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風(fēng)態(tài)なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全*であった。呼吸も出來ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔樓が見える。塔樓は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様。」うめくような聲が、風(fēng)と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達(dá)セリヌンティウス様の弟子でございます?!工饯稳簸ない?、メロスの後について走りながら叫んだ?!袱猡?、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの 方 ( かた ) をお助けになることは出來ません?!?BR> 「いや、まだ陽は沈まぬ?!?BR> 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ?!攻幞恁工闲丐螐垽炅绚堡胨激い?、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは來ます、とだけ答え、強(qiáng)い信念を持ちつづけている様子でございました?!?BR> 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて來い! フィロストラトス?!?BR> 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい?!?BR> 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を盡して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に沒し、まさに最後の一片の殘光も、消えようとした時、メロスは疾風(fēng)の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って來た。約束のとおり、いま、帰って來た?!工却舐暏切虉訾稳盒\(zhòng)にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて 嗄 ( しわが ) れた聲が 幽 ( かす ) かに出たばかり、群衆(zhòng)は、ひとりとして彼の到著に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆(zhòng)を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質(zhì)にした私は、ここにいる!」と、かすれた聲で精一ぱいに叫びながら、ついに磔臺に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、 齧 ( かじ ) りついた。群衆(zhòng)は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス?!攻幞恁工涎郅藳妞蚋·伽蒲预盲??!杆饯驓?。ちから一ぱいに頬を毆れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が 若 ( も ) し私を毆ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。毆れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で 首肯 ( うなず ) き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を毆った。毆ってから 優(yōu)しく ( やさしく ) 微笑 ( ほほえ ) み、
「メロス、私を毆れ。同じくらい音高く私の頬を毆れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を毆ってくれなければ、私は君と抱擁できない?!?BR> メロスは腕に 唸 ( うな ) りをつけてセリヌンティウスの頬を毆った。
「ありがとう、友よ?!苟送瑫rに言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい聲を放って泣いた。
群衆(zhòng)の中からも、 歔欷 ( きょき ) の聲が聞えた。暴君ディオニスは、群衆(zhòng)の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて靜かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは 葉 ( かな ) ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虛な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい?!?BR> どっと群衆(zhòng)の間に、歓聲が起った。
「萬歳、王様萬歳?!?BR> ひとりの少女が、 緋 ( ひ ) のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを著るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの*を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ?!?BR> 勇者は、ひどく赤面した。
「王様は、人を殺します?!?BR> 「なぜ?xì)ⅳ工韦??!?BR> 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ?!?BR> 「たくさんの人を殺したのか?!?BR> 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお 世嗣 ( よつぎ ) を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を?!?BR> 「おどろいた。國王は亂心か?!?BR> 「いいえ、亂心ではございませぬ。人を、信ずる事が出來ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質(zhì)ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました?!?BR> 聞いて、メロスは激怒した?!?呆 ( あき ) れた王だ。生かして置けぬ?!?BR> メロスは、単純な男であった。買い物を、背負(fù)ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、 巡邏 ( じゅんら ) の警吏に捕縛された。調(diào)べられて、メロスの懐中からは短剣が出て來たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは靜かに、けれども威厳を 以 ( もっ ) て問いつめた。その王の顔は 蒼白 ( そうはく ) で、 眉間 ( みけん ) の 皺 ( しわ ) は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、 憫笑 ( びんしょう ) した?!甘朔饯螣oいやつじゃ。おまえには、わしの孤獨(dú)がわからぬ?!?BR> 「言うな!」とメロスは、いきり立って 反駁 ( はんばく ) した?!溉摔涡膜蛞嗓Δ韦?、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる?!?BR> 「疑うのが、正當(dāng)の心構(gòu)えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ?!贡┚下渲い?呟 ( つぶや ) き、ほっと 溜息 ( ためいき ) をついた?!袱铯筏坤盲?、平和を望んでいるのだが?!?BR> 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か?!工长螭嗓膝幞恁工靶Δ筏??!缸铯螣oい人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、 下賤 ( げせん ) の者?!雇酩?、さっと顔を挙げて報いた?!缚冥扦?、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奧底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、 磔 ( はりつけ ) になってから、泣いて 詫 ( わ ) びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は 悧巧 ( りこう ) だ。 自惚 ( うぬぼ ) れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、 ―― 」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を與えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結(jié)婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って來ます?!?BR> 「ばかな?!工缺┚?、 嗄 ( しわが ) れた聲で低く笑った?!袱趣螭扦猡胜?噓 ( うそ ) を言うわい。逃がした小鳥が帰って來るというのか?!?BR> 「そうです。帰って來るのです。」メロスは必死で言い張った?!杆饯霞s束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質(zhì)としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って來なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい?!?BR> それを聞いて王は、殘虐な気持で、そっと 北叟笑 ( ほくそえ ) んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って來ないにきまっている。この噓つきに 騙 ( だま ) された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう 奴輩 ( やつばら ) にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日沒までに帰って來い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて來るがいい。おまえの罪は、永遠(yuǎn)にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる?!?BR> 「はは。いのちが大事だったら、おくれて來い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、 地団駄 ( じだんだ ) 踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、 佳 ( よ ) き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で 首肯 ( うなず ) き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到著したのは、 翌 ( あく ) る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて來る兄の、 疲労 ( ひろう ) 困憊 ( こんぱい ) の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質(zhì)問を浴びせた。
「なんでも無い?!攻幞恁工蠠o理に笑おうと努めた?!甘肖擞檬陇驓垽筏苼恧?。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結(jié)婚式を挙げる。早いほうがよかろう?!?BR> 妹は頬をあからめた。
「うれしいか。 綺麗 ( きれい ) な衣裳も買って來た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて來い。結(jié)婚式は、あすだと?!?BR> メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調(diào)え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結(jié)婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出來ていない、 葡萄 ( ぶどう ) の季節(jié)まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出來ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強(qiáng)であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結(jié)婚式は、真晝に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲(yún)が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狹い家の中で、むんむん蒸し暑いのも 怺 ( こら ) え、陽気に歌をうたい、手を 拍 ( う ) った。メロスも、満面に喜色を 湛 ( たた ) え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ亂れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日沒までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優(yōu)しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、噓をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ?!?BR> 花嫁は、夢見心地で 首肯 ( うなず ) いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、寶といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ?!?BR> 花婿は 揉 ( も ) み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも 會釈 ( えしゃく ) して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寢過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の臺に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出來た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の *佞 ( かんねい ) 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名譽(yù)を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大聲挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を橫切り、森をくぐり抜け、隣村に著いた頃には、雨も 止 ( や ) み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって來た。メロスは 額 ( ひたい ) の汗をこぶしで払い、ここまで來れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き著けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの 呑気 ( のんき ) さを取り返し、好きな小歌をいい聲で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達(dá)した頃、降って 湧 ( わ ) いた災(zāi)難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は 氾濫 ( はんらん ) し、 濁流 ( だくりゅう ) 滔々 ( とうとう ) と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 木葉微塵 ( こっぱみじん ) に 橋桁 ( はしげた ) を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、聲を限りに呼びたててみたが、 繋舟 ( けいしゅう ) は殘らず浪に 浚 ( さら ) われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した?!袱ⅳ?、 鎮(zhèn) ( しず ) めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真晝時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き著くことが出來なかったら、あの佳い友達(dá)が、私のために死ぬのです?!?BR> 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、 煽 ( あお ) り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負(fù)けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘爭を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと 掻 ( か ) きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに 憐愍 ( れんびん ) を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出來たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出來ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊(duì)の山賊が躍り出た。
「待て?!?BR> 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ?!?BR> 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ?!?BR> 「その、いのちが欲しいのだ?!?BR> 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
山賊たちは、ものも言わず 一斉に ( いっせいに ) 棍棒 ( こんぼう ) を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を毆り倒し、殘る者のひるむ 隙 ( すき ) に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、 流石 ( さすが ) に疲労し、折から午後の 灼熱 ( しゃくねつ ) の太陽がまともに、かっと照って來て、メロスは幾度となく 眩暈 ( めまい ) を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出來ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も 撃ち倒し ( うちたおし ) 韋駄天 ( いだてん ) 、ここまで突破して來たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、 稀代 ( きたい ) の不信の人間、まさしく王の思う 壺 ( つぼ ) だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身 萎 ( な ) えて、もはや 芋蟲 ( いもむし ) ほどにも前進(jìn)かなわぬ。路傍の草原にごろりと寢ころがった。身體疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな 不貞腐 ( ふてくさ ) れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて來たのだ。動けなくなるまで走って來たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を 截 ( た ) ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も盡きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を 欺 ( あざむ ) いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運(yùn)命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本當(dāng)に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲(yún)を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき寶なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで來たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて來たのだ。私だから、出來たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負(fù)けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて來い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合點(diǎn)して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠(yuǎn)に裏切者だ。地上で最も、不名譽(yù)の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる 哉 ( かな ) 。 ―― 四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、 潺々 ( せんせん ) 、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、巖の裂目から 滾々 ( こんこん ) と、何か 小さく ( ちいさく ) 囁 ( ささや ) きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で 掬 ( すく ) って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉體の 疲労 ( ひろう ) 恢復(fù) ( かいふく ) と共に、わずかながら希望が生れた。義務(wù)遂行の希望である。わが身を殺して、名譽(yù)を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日沒までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、靜かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出來るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、 跳 ( は ) ねとばし、メロスは黒い風(fēng)のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を 蹴 ( け ) とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と 颯 ( さ ) っとすれちがった瞬間、不吉な會話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ?!工ⅳ?、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風(fēng)態(tài)なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全*であった。呼吸も出來ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔樓が見える。塔樓は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様。」うめくような聲が、風(fēng)と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達(dá)セリヌンティウス様の弟子でございます?!工饯稳簸ない?、メロスの後について走りながら叫んだ?!袱猡?、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの 方 ( かた ) をお助けになることは出來ません?!?BR> 「いや、まだ陽は沈まぬ?!?BR> 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ?!攻幞恁工闲丐螐垽炅绚堡胨激い?、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは來ます、とだけ答え、強(qiáng)い信念を持ちつづけている様子でございました?!?BR> 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて來い! フィロストラトス?!?BR> 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい?!?BR> 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を盡して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に沒し、まさに最後の一片の殘光も、消えようとした時、メロスは疾風(fēng)の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って來た。約束のとおり、いま、帰って來た?!工却舐暏切虉訾稳盒\(zhòng)にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて 嗄 ( しわが ) れた聲が 幽 ( かす ) かに出たばかり、群衆(zhòng)は、ひとりとして彼の到著に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆(zhòng)を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質(zhì)にした私は、ここにいる!」と、かすれた聲で精一ぱいに叫びながら、ついに磔臺に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、 齧 ( かじ ) りついた。群衆(zhòng)は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス?!攻幞恁工涎郅藳妞蚋·伽蒲预盲??!杆饯驓?。ちから一ぱいに頬を毆れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が 若 ( も ) し私を毆ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。毆れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で 首肯 ( うなず ) き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を毆った。毆ってから 優(yōu)しく ( やさしく ) 微笑 ( ほほえ ) み、
「メロス、私を毆れ。同じくらい音高く私の頬を毆れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を毆ってくれなければ、私は君と抱擁できない?!?BR> メロスは腕に 唸 ( うな ) りをつけてセリヌンティウスの頬を毆った。
「ありがとう、友よ?!苟送瑫rに言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい聲を放って泣いた。
群衆(zhòng)の中からも、 歔欷 ( きょき ) の聲が聞えた。暴君ディオニスは、群衆(zhòng)の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて靜かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは 葉 ( かな ) ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虛な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい?!?BR> どっと群衆(zhòng)の間に、歓聲が起った。
「萬歳、王様萬歳?!?BR> ひとりの少女が、 緋 ( ひ ) のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを著るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの*を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ?!?BR> 勇者は、ひどく赤面した。