2016年職稱日語測試C級:閱讀素材(50)

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「隣にいた新藤ですが」
    ああ、といったきり、主婦はその場に立ちすくんだ。
    丸顔で小柄な人だった?;挙颏筏胜い韦税驻ゎ啢坤盲?。それがそのままである。変ったのは私であろう、白髪なのだ。
    「お久しゅうございます」
    「ほんまにもう、お懐かしゅうございますな」
    「あの時はお世話になりました」
    「なんやらもう、夢を見てるようどすな」
    主婦の目には涙が光った。
    東京から京都へ移ったのは昭和十七年四月である。尊敬していた溝口健二監(jiān)督に師事するためだった。所屬していた東京の映畫會社をやめて、見知らぬ京都へ移るのは勇気のいることだった。私一人ではとてもふみきれなかったであろう、妻がすすめてくれたのである。私は二十九歳、妻は二十五歳、結(jié)婚して二年目だった。
    私は売れないシナリオを書いているシナリァ¢イターだった。自分の才能を信じた時期があった。間もなく壁にぶっつかる。才能を疑う季節(jié)がやってきた。周囲がみな厚い壁になる。脫出しなければ……たった一本いいシナリオを書ければそれで事は片づくのだが、それが出來ない。京都へ移ったのは脫出の試みだった。
    世帯道具は何もなかった、東京へ置いてきたのではない、はじめからそれらしき物を持たなかったのである。私たちは貧しかった。古機と蒲団があるだけだ、狹い長屋ががらんとしていた。
    下鴨の町も小路の中の人も、見知らぬ他人であった。隣の若い細君だけが親しい聲をかけてくれた。ご主人は市役所へ勤めているということで、早い時間に出かけ、夜は遅かった。家計は決して豊かには見えなかったが細君の顔はいつも明るかった。主人を送り出すと掃除である。古びた表の格子に丹念な雑巾がけをした。夏冬つねに和服で、夏は洗いざらしの浴衣に糊を厚くつけて、ぴんと突っ張ったのを好んで著ていた。それはいかにも京女らしい風(fēng)情だった。
    私は、溝口健二監(jiān)督に読んでもらうためのシナリオをいく本も書いたが、ついにものにはならなかった。外には毎日のように出征兵士を送る歌が聞こえ、また戦死の遺骨を迎える行列があった。私と妻は、その歌や、その沈黙を、家の中で身をひそめて、息を殺し聞いた。私たちは大きく流れる時の中で、ただ抱き合っているほかはなかった。