提高日語閱讀的途徑有很多,其中多讀日語小說和文章就是其中之一。以下為大家?guī)砣照Z小說閱讀:源氏物語第六部分。
御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寢室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の戀を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文學でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ聲をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。
もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
荒き風防ぎし蔭の枯れしより
小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無き
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって來たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その當時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」
とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に會って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
尋ね行くまぼろしもがなつてにても
魂(たま)のありかをそこと知るべく
絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現(xiàn)はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服裝は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態(tài)をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の聲にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を與えてしまった。秋風の音にも蟲の聲にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
月も落ちてしまった。
雲(yún)の上も涙にくるる秋の月
いかですむらん淺茅生(あさじう)の宿
命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近衛(wèi)府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寢室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。
御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寢室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の戀を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文學でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ聲をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。
もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
荒き風防ぎし蔭の枯れしより
小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無き
というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって來たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その當時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」
とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に會って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
尋ね行くまぼろしもがなつてにても
魂(たま)のありかをそこと知るべく
絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現(xiàn)はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服裝は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態(tài)をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の聲にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を與えてしまった。秋風の音にも蟲の聲にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
月も落ちてしまった。
雲(yún)の上も涙にくるる秋の月
いかですむらん淺茅生(あさじう)の宿
命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近衛(wèi)府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寢室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。