天聲人語(yǔ)08年07月26日がある

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惡性事件中遇難的大學(xué)生
    ▼ビルに囲まれた空に入道雲(yún)がわいていた。獻(xiàn)花臺(tái)に夏の日が照る。花に埋もれるようにメッセージがあった?!袱郅螭浃韦亭à沥悚蟆·い膜猡郡丹螭韦à颏ⅳ辘趣Α·盲趣铯工欷胜い琛埂¥浃辘欷?、突然の終止符である。
    被建筑物圍起來(lái)的那片天空涌過(guò)來(lái)一片烏云。夏日的陽(yáng)光照在獻(xiàn)花臺(tái)上??毂谎蜎](méi)在花海中的致詞寫(xiě)道:“書(shū)店的小姑娘,感謝你一直以來(lái)燦爛的笑臉,我們一定不會(huì)忘記的”。 大家都難以接受,這突如其來(lái)的休止符。
    ▼東京·八王子の書(shū)店で起きた無(wú)差別殺傷事件で、アルバイトの大學(xué)生斉木愛(ài)(まな)さんが犠牲になった。人柄を知る人は「明るく、まじめな人でした」と評(píng)している。だが、一昨日までなら、尋ねられれば「明るく、まじめな人です」と答えていたはずだ。
    在東京八王子書(shū)店發(fā)生的任意殺人事件中,做兼職的大學(xué)生斉木愛(ài)不幸遇難。認(rèn)識(shí)她的人都評(píng)價(jià)說(shuō):“她曾經(jīng)是個(gè)很陽(yáng)光、很認(rèn)真的人。” 然而,如果是在前一天詢問(wèn)的話,應(yīng)該得到的是這樣的回答:“她一直是個(gè)很陽(yáng)光、很認(rèn)真的人?!?BR>    ▼憎んでも余りある兇行が、「です」を「でした」に変えさせた。かけがえのない命を過(guò)去のものにした。愛(ài)する肉親を、親しい友を、いまや過(guò)去形で語(yǔ)らなくてはならぬ人たちの無(wú)念は、いかばかりかと思う。
    是這讓人憎恨至極的兇惡行為將原本的“一直”變成了“曾經(jīng)”,使無(wú)可取代的生命成為過(guò)去。如今對(duì)于不得不用過(guò)去式來(lái)表達(dá)自己的懊惱心情的至愛(ài)親朋來(lái)說(shuō),是多么的心痛至極啊。
    ▼獻(xiàn)花臺(tái)に手を合わせながら、三好達(dá)治の詩(shī)の一節(jié)を思った。〈いいえ昨日(きのう)はありません/今日を打つのは今日の時(shí)計(jì)……昨日はどこにもありません/そこにあなたの立っていた/そこにあなたの笑っていた/昨日はどこにもありません〉。誰(shuí)よりも本人が、一番悔しいに違いない。
    在獻(xiàn)花臺(tái)前雙手合十,這時(shí)候突然想起了三好達(dá)治詩(shī)中的一段話,“不,沒(méi)有昨天,今天敲響的是今天的鐘聲…… 無(wú)論何處昨天不復(fù)存在,在那里有站著的你,在那里有你的笑容,無(wú)論何處昨天不復(fù)存在。” 逝者本人一定比任何人都悔恨。
    ▼昨日と今日を斷ち切った男は、またも「誰(shuí)でもよかった」とうそぶく?!赣Hが話を聞いてくれず、事件でも起こせば名前が出ると思った」。33歳とは思えぬ幼稚さと、兇暴性の混在に背筋が冷える。
    將昨日與今日無(wú)情切斷的男人,還若無(wú)其事地說(shuō)“無(wú)論殺誰(shuí)都行”“父母都不聽(tīng)我的訴說(shuō),我想如果搞出點(diǎn)事端來(lái)的話就可以出名了”。 33歲的人如此幼稚,令人難以想象,其殘暴性更是讓人毛骨悚然。
    ▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に勵(lì)み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社會(huì)や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠(yuǎn)い人だったのに違いない。
    據(jù)說(shuō)“書(shū)店的女孩”人見(jiàn)人愛(ài)。聽(tīng)說(shuō)她已經(jīng)找好了工作,正在努力完成畢業(yè)論文,對(duì)將來(lái)充滿了希望。有一點(diǎn)可以肯定的是,她與那些把個(gè)人的憤懣不平怪罪于社會(huì)或他人的蠢人有著天壤之別。
    解說(shuō):
    三好 達(dá)治(みよし たつじ、男性、1900年8月23日 - 1964年4月5日)は大阪府大阪市出身の詩(shī)人。東京帝國(guó)大學(xué)文學(xué)部仏文科卒。
    はじめ職業(yè)軍人への道を歩み陸軍幼年學(xué)校を経て陸軍士官學(xué)校に進(jìn)むが、脫走事件を起こして退校処分となり、京都三高文科に入學(xué)。三高時(shí)代はニーチェやツルゲーネフを耽読し、丸山薫の影響で詩(shī)作を始める。大學(xué)在學(xué)中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に參加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩(shī)誌『詩(shī)と詩(shī)論』創(chuàng)刊に攜わる。シャルル·ボードレール(Charles Baudelaire)の散文詩(shī)集『巴里と憂鬱』の全訳を手がけた後、処女詩(shī)集『測(cè)量船』を刊行。敘情的な作風(fēng)で人気を博す。十?dāng)?shù)冊(cè)の詩(shī)集の他、詩(shī)歌の手引書(shū)として『詩(shī)を読む人のために』、隨筆集『路傍の花』『月の十日』などがある。