本課課文
教えることは教わることだというが、日本語を外國人に教えてみると、彼らから日本語について教えられ考えさせられることが多い。
「先生、日本人、『さようなら』といいませんね?!?BR> 「へえ?」
「good byeのことですよ。人と別れるとき、『さようなら』って言うのでしょう。國で習(xí)いました」
「いや、『さようなら』って言いますよ?!?BR> 「でも、學(xué)生たち、使いませんね?!?BR> 「何て言いますか?!?BR> 「バイバイ」
なるほど。親しい者同士、特に若い人たちが「バイバイ」とか、「バイ」とかといって、手を振って別れることが多い。年輩の私などでも使うことがある。幼児に向かっては當(dāng)然のように言う。一般の辭典の中には「バイバイbye bye(俗語)『もと、幼児語』さようなら」と解説するのもあるが、掲出していないものもある。日本語教育の教科書にも、普通は出ていない。いわゆる教室日本語と生活日本語の違う所なのである。
「先生、『はい』と『ええ』と、どう違いますか?!?BR> 「『はい』の方が丁寧な返事ですね?!?BR> と答えたものの、それだけかな、と気になった。それで考えてみて気がついた。これは案外大事な問題のようだ。
まず、「はい」も「ええ」も肯定の返事に使える點では共通している。
「お土産に果物を持って行ってあげようか?!?BR> 「はい、持って來てください。」
と言うときの「はい」は「ええ」とも言える?!袱悉ぁ工韦郅Δ⑸伽范?。あるいは、かしこまった感じがあるだろう。
「作文、もうできた」とか、「明日の會いに出ますね。」とか、「旅行、好きですか?」などと聞かれたときに「はい」「ええ」の両方が使える。ところが、
「そこにいるのは誰?」「はい、三郎です」
と言うときの「はい」を「ええ」と言うのは変である。
「おはようございます」「はい、おはよう」
「じゃあ、さようなら」「はい、お気をつけて」
などの「はい」を「ええ」ということもできないだろう。
これらから考えて、次のようなことがいえるのではないか思う。
「はい」は、相手の言葉を受け止めたと言う意味の返事なのに対して、「ええ」は、相手の言葉を受け止め、さらにその內(nèi)容を承認し肯定すると言う意味の返事である?!刚l?」とか、「いつ?」とか、と聞かれるときに、その內(nèi)容を承認する肯定するとかと言うことはあり得ない。だから、「はい」は使えるが、「ええ」は使えない?!袱悉瑜Α工趣袱丹瑜Δ胜椤工趣?、挨拶されたときに、その內(nèi)容を承認するとか肯定するとか考えること自體、変なものだ。だからこの場合にも「ええ」は使えない。
さっきに「はい」も「ええ」もともに使える場合は、「肯定の返事」として「共通している」と言ったが、これは、「はい」が文脈上、自然に肯定の意味をも表すようになっている場合なのだ。
ここまでが私の一応の結(jié)論だったのだが、しかしさらに考えてみると、「はい」にも「ええ」にも、返事ではなくて相槌を打つ用法があって、紛らわしい。承認してくれた返事、肯定の返事だと思ったものが、単なる相槌だったとしたら、たいへんな誤解を生むだろう。歐米人は、余り相槌を打たないで相手の言葉に聞き入る傾向がある。相槌を打つにしてもyesの類は使わないようだ。そのため、歐米人から、「日本人はよくyes yesと言うけれども、実は、肯定しているわけでも、賛成しているわけでもない。言うこととすることと違う」と非難されることがある。相槌の「はい」も「ええ」もyesに當(dāng)たると思って気楽にyesを使うことが、國際的な不信感を生むもとになる。場面にもよるのだろうが、軽々しくyesを使ってはならないのだ。
「先生、『夢を見る』は慣用句ですね」
と言われてはっとした。慣用句の問題を、留學(xué)生を交えて教室で話し合っているときに、ある中國人留學(xué)生が聞いたのである。
慣用句は「決まり文句」の一種だが、例えば,「羽を伸ばす」は、鳥がのびのびと羽を伸ばすと言うもとの意味から離れて、人が制約を脫してのびのびとする。気ままに振るまうという意味に使われる。このような比喩的な慣用句には、「腹が立つ」(怒る)「心を打つ」(感動する)「鼻にかける」(自慢の種にする)などがある。
これらに対して、ごく普通の決まった言い回しの慣用句がある?!鸽妶螭虼颏摹埂赶託荬丹埂埂笟荬膜工胜嗓扦ⅳ?。これらは比喩的な慣用句とは違って、もとの意味を失っていないが、語と語の結(jié)び付きかたが決まっているものである。「夢を見る」もこのたぐいの慣用句だと言うのである。われわれ日本人にとって,[夢」は「見る」以外のものではない?!袱い浃蕢簸蛞姢俊埂笁簸四袱蛞姢俊工胜嗓仁工Α!笁簸韦胜r代」「夢と知っていながら」などとも使うが、その「夢」自體、「見る」ものと思い込んでいる。余り當(dāng)たり前で気がつかないでいたのである。
「中國語では『夢ヲスル』(做夢)と言うんです?!簤簸蛞姢搿护妊预铯胜い韦恰⒚姘驻い人激い蓼筏??!工?、その學(xué)生が付け加えた。數(shù)カ國の留學(xué)生を聞くと、中國語式の言い方をする言語もあるし、英語の“dream”のように一語で表す言語もある。日本語式に「見る」を使う言語もある。いろいろだということを教えられた。
教えることは教わることだというが、日本語を外國人に教えてみると、彼らから日本語について教えられ考えさせられることが多い。
「先生、日本人、『さようなら』といいませんね?!?BR> 「へえ?」
「good byeのことですよ。人と別れるとき、『さようなら』って言うのでしょう。國で習(xí)いました」
「いや、『さようなら』って言いますよ?!?BR> 「でも、學(xué)生たち、使いませんね?!?BR> 「何て言いますか?!?BR> 「バイバイ」
なるほど。親しい者同士、特に若い人たちが「バイバイ」とか、「バイ」とかといって、手を振って別れることが多い。年輩の私などでも使うことがある。幼児に向かっては當(dāng)然のように言う。一般の辭典の中には「バイバイbye bye(俗語)『もと、幼児語』さようなら」と解説するのもあるが、掲出していないものもある。日本語教育の教科書にも、普通は出ていない。いわゆる教室日本語と生活日本語の違う所なのである。
「先生、『はい』と『ええ』と、どう違いますか?!?BR> 「『はい』の方が丁寧な返事ですね?!?BR> と答えたものの、それだけかな、と気になった。それで考えてみて気がついた。これは案外大事な問題のようだ。
まず、「はい」も「ええ」も肯定の返事に使える點では共通している。
「お土産に果物を持って行ってあげようか?!?BR> 「はい、持って來てください。」
と言うときの「はい」は「ええ」とも言える?!袱悉ぁ工韦郅Δ⑸伽范?。あるいは、かしこまった感じがあるだろう。
「作文、もうできた」とか、「明日の會いに出ますね。」とか、「旅行、好きですか?」などと聞かれたときに「はい」「ええ」の両方が使える。ところが、
「そこにいるのは誰?」「はい、三郎です」
と言うときの「はい」を「ええ」と言うのは変である。
「おはようございます」「はい、おはよう」
「じゃあ、さようなら」「はい、お気をつけて」
などの「はい」を「ええ」ということもできないだろう。
これらから考えて、次のようなことがいえるのではないか思う。
「はい」は、相手の言葉を受け止めたと言う意味の返事なのに対して、「ええ」は、相手の言葉を受け止め、さらにその內(nèi)容を承認し肯定すると言う意味の返事である?!刚l?」とか、「いつ?」とか、と聞かれるときに、その內(nèi)容を承認する肯定するとかと言うことはあり得ない。だから、「はい」は使えるが、「ええ」は使えない?!袱悉瑜Α工趣袱丹瑜Δ胜椤工趣?、挨拶されたときに、その內(nèi)容を承認するとか肯定するとか考えること自體、変なものだ。だからこの場合にも「ええ」は使えない。
さっきに「はい」も「ええ」もともに使える場合は、「肯定の返事」として「共通している」と言ったが、これは、「はい」が文脈上、自然に肯定の意味をも表すようになっている場合なのだ。
ここまでが私の一応の結(jié)論だったのだが、しかしさらに考えてみると、「はい」にも「ええ」にも、返事ではなくて相槌を打つ用法があって、紛らわしい。承認してくれた返事、肯定の返事だと思ったものが、単なる相槌だったとしたら、たいへんな誤解を生むだろう。歐米人は、余り相槌を打たないで相手の言葉に聞き入る傾向がある。相槌を打つにしてもyesの類は使わないようだ。そのため、歐米人から、「日本人はよくyes yesと言うけれども、実は、肯定しているわけでも、賛成しているわけでもない。言うこととすることと違う」と非難されることがある。相槌の「はい」も「ええ」もyesに當(dāng)たると思って気楽にyesを使うことが、國際的な不信感を生むもとになる。場面にもよるのだろうが、軽々しくyesを使ってはならないのだ。
「先生、『夢を見る』は慣用句ですね」
と言われてはっとした。慣用句の問題を、留學(xué)生を交えて教室で話し合っているときに、ある中國人留學(xué)生が聞いたのである。
慣用句は「決まり文句」の一種だが、例えば,「羽を伸ばす」は、鳥がのびのびと羽を伸ばすと言うもとの意味から離れて、人が制約を脫してのびのびとする。気ままに振るまうという意味に使われる。このような比喩的な慣用句には、「腹が立つ」(怒る)「心を打つ」(感動する)「鼻にかける」(自慢の種にする)などがある。
これらに対して、ごく普通の決まった言い回しの慣用句がある?!鸽妶螭虼颏摹埂赶託荬丹埂埂笟荬膜工胜嗓扦ⅳ?。これらは比喩的な慣用句とは違って、もとの意味を失っていないが、語と語の結(jié)び付きかたが決まっているものである。「夢を見る」もこのたぐいの慣用句だと言うのである。われわれ日本人にとって,[夢」は「見る」以外のものではない?!袱い浃蕢簸蛞姢俊埂笁簸四袱蛞姢俊工胜嗓仁工Α!笁簸韦胜r代」「夢と知っていながら」などとも使うが、その「夢」自體、「見る」ものと思い込んでいる。余り當(dāng)たり前で気がつかないでいたのである。
「中國語では『夢ヲスル』(做夢)と言うんです?!簤簸蛞姢搿护妊预铯胜い韦恰⒚姘驻い人激い蓼筏??!工?、その學(xué)生が付け加えた。數(shù)カ國の留學(xué)生を聞くと、中國語式の言い方をする言語もあるし、英語の“dream”のように一語で表す言語もある。日本語式に「見る」を使う言語もある。いろいろだということを教えられた。

