作曲家遠(yuǎn)藤実逝世
中國の西域にある崑崙(こんろん)山脈を訪ねた20年ほど前、最奧の兵舎に一夜の宿を借りた?;臎訾趣筏匡L(fēng)景に囲まれた夕まぐれ、だれが吹くのだろう、笛の音が流れてきた。聞くうちに「北國の春」だとわかり、思いがけず郷愁に浸ったのを覚えている。
大約20年前我造訪了中國西域的昆侖山,在最深處的兵營借宿了一宵。昏黃的夕陽中是一片荒涼的風(fēng)景,忽然不知哪里傳來了笛聲。一聽竟是《北國之春》,我一下子沉浸在鄉(xiāng)愁之中。
アジア各國でも流行(はや)ったその曲をはじめ、亡くなった遠(yuǎn)藤実さんの旋律には、琴線をつまびくような哀楽が漂う。哀の中から楽が芽吹き、楽はまた哀を內(nèi)に秘める。自らの來し方を語るかのような趣が、そのメロディーにはあった。
包括這首風(fēng)靡亞洲各國的樂曲在內(nèi),已故作曲家遠(yuǎn)藤實(shí)所創(chuàng)作的樂曲的旋律中都充滿了一種似乎會撥動琴弦的哀傷。愉悅在哀傷中萌芽,哀傷中蘊(yùn)含著愉悅。作曲家似乎在利用這旋律向人們闡述著自己的往事。
貧しい家に育ち、小學(xué)校を終えると働きに出た。見習(xí)工をしながら通信教育用の中學(xué)校教科書を買い、校章に似た付録のバッジを帽子につけて悔しさをまぎらわせたと、自伝「涙の川を渉(わた)るとき」につづっている。
自幼貧苦,小學(xué)畢業(yè)后便出來打工。在他的自傳《涉淚江時(shí)》中寫到他用做見習(xí)工人所得的錢,購買函授教育的中學(xué)教材,并把看起來像校章的附錄的徽章別在帽子上,以此來彌補(bǔ)他不能上學(xué)的遺憾。
のちに「高校三年生」のヒットを生むが、自身には學(xué)園生活の思い出がなかった。あの曲は、自らの「失われた青春」への賛歌でもあったそうだ。だからだろうか。明るさの中にひそむ淡い哀調(diào)を、わが耳は感じてきた。
后來雖然創(chuàng)作出頗受歡迎的《高中三年級》,但本人卻沒有有關(guān)學(xué)校生活的記憶。據(jù)說該樂曲也是作者對“失去的青春”的頌歌?;蛟S正是基于這種原因,才使我們從其明快的旋律中感到一絲淡淡的憂傷。
「からたち日記」「せんせい」「くちなしの花」。遠(yuǎn)藤さんが去って、また一歩、「昭和」は遠(yuǎn)ざかる?!唇丹胙─涿髦韦线h(yuǎn)くなりにけり〉。中村草田男の名句は明治が終わって19年後に詠まれている。いま平成20年。昭和は遠(yuǎn)く……の感はいよいよ募る。
在給我們留下《橘子花日記》《先生》《梔子花》這一首首膾炙人口的樂曲后,遠(yuǎn)藤離開了,而且“昭和”這個(gè)時(shí)代也即將遠(yuǎn)離?!把┗w揚(yáng)兮,明治去”,這是中村草田男在明治結(jié)束后19年所吟誦的名句?,F(xiàn)在是平成20年。昭和正漸漸遠(yuǎn)去……我心中的這一想法越發(fā)強(qiáng)烈了。
「雨が降って、雪が降って、天も泣いてほしかった」。苦楽をともにした妻節(jié)子さんの旅立ちを、悲しみのきわみで見送って15年。そろそろ天上で再會を果たし、二人三腳で駆け抜けた昭和を懐かしんでいる頃だろうか。
“下雨了,下雪了,老天為我哭泣吧。”同甘共苦的妻子節(jié)子離開人世的這的15年,對他來說是極度悲涼的。不過,他們將在天上再會,回憶著當(dāng)年夫婦齊心協(xié)力度過的昭和時(shí)代吧。
遠(yuǎn)藤実:東京府東京市向島區(qū)(現(xiàn)在の東京都墨田區(qū)向島)に生まれ、第二次世界大戦時(shí)に新潟県西蒲原郡內(nèi)野町(現(xiàn)在の新潟市西區(qū)內(nèi)野)にて疎開生活を送っていた。
1957年の「お月さん今晩わ」にて作曲家としてデビュー.それ以後、現(xiàn)在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫など多くの歌手を育てた。
また自らの名をつけたレコード會社·ミノルフォン(現(xiàn):徳間ジャパンコミュニケーションズ)を創(chuàng)業(yè)したことでも有名である。
2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時(shí)54分、急性心筋梗塞のため東京都內(nèi)の病院で逝去。76歳沒。
中國の西域にある崑崙(こんろん)山脈を訪ねた20年ほど前、最奧の兵舎に一夜の宿を借りた?;臎訾趣筏匡L(fēng)景に囲まれた夕まぐれ、だれが吹くのだろう、笛の音が流れてきた。聞くうちに「北國の春」だとわかり、思いがけず郷愁に浸ったのを覚えている。
大約20年前我造訪了中國西域的昆侖山,在最深處的兵營借宿了一宵。昏黃的夕陽中是一片荒涼的風(fēng)景,忽然不知哪里傳來了笛聲。一聽竟是《北國之春》,我一下子沉浸在鄉(xiāng)愁之中。
アジア各國でも流行(はや)ったその曲をはじめ、亡くなった遠(yuǎn)藤実さんの旋律には、琴線をつまびくような哀楽が漂う。哀の中から楽が芽吹き、楽はまた哀を內(nèi)に秘める。自らの來し方を語るかのような趣が、そのメロディーにはあった。
包括這首風(fēng)靡亞洲各國的樂曲在內(nèi),已故作曲家遠(yuǎn)藤實(shí)所創(chuàng)作的樂曲的旋律中都充滿了一種似乎會撥動琴弦的哀傷。愉悅在哀傷中萌芽,哀傷中蘊(yùn)含著愉悅。作曲家似乎在利用這旋律向人們闡述著自己的往事。
貧しい家に育ち、小學(xué)校を終えると働きに出た。見習(xí)工をしながら通信教育用の中學(xué)校教科書を買い、校章に似た付録のバッジを帽子につけて悔しさをまぎらわせたと、自伝「涙の川を渉(わた)るとき」につづっている。
自幼貧苦,小學(xué)畢業(yè)后便出來打工。在他的自傳《涉淚江時(shí)》中寫到他用做見習(xí)工人所得的錢,購買函授教育的中學(xué)教材,并把看起來像校章的附錄的徽章別在帽子上,以此來彌補(bǔ)他不能上學(xué)的遺憾。
のちに「高校三年生」のヒットを生むが、自身には學(xué)園生活の思い出がなかった。あの曲は、自らの「失われた青春」への賛歌でもあったそうだ。だからだろうか。明るさの中にひそむ淡い哀調(diào)を、わが耳は感じてきた。
后來雖然創(chuàng)作出頗受歡迎的《高中三年級》,但本人卻沒有有關(guān)學(xué)校生活的記憶。據(jù)說該樂曲也是作者對“失去的青春”的頌歌?;蛟S正是基于這種原因,才使我們從其明快的旋律中感到一絲淡淡的憂傷。
「からたち日記」「せんせい」「くちなしの花」。遠(yuǎn)藤さんが去って、また一歩、「昭和」は遠(yuǎn)ざかる?!唇丹胙─涿髦韦线h(yuǎn)くなりにけり〉。中村草田男の名句は明治が終わって19年後に詠まれている。いま平成20年。昭和は遠(yuǎn)く……の感はいよいよ募る。
在給我們留下《橘子花日記》《先生》《梔子花》這一首首膾炙人口的樂曲后,遠(yuǎn)藤離開了,而且“昭和”這個(gè)時(shí)代也即將遠(yuǎn)離?!把┗w揚(yáng)兮,明治去”,這是中村草田男在明治結(jié)束后19年所吟誦的名句?,F(xiàn)在是平成20年。昭和正漸漸遠(yuǎn)去……我心中的這一想法越發(fā)強(qiáng)烈了。
「雨が降って、雪が降って、天も泣いてほしかった」。苦楽をともにした妻節(jié)子さんの旅立ちを、悲しみのきわみで見送って15年。そろそろ天上で再會を果たし、二人三腳で駆け抜けた昭和を懐かしんでいる頃だろうか。
“下雨了,下雪了,老天為我哭泣吧。”同甘共苦的妻子節(jié)子離開人世的這的15年,對他來說是極度悲涼的。不過,他們將在天上再會,回憶著當(dāng)年夫婦齊心協(xié)力度過的昭和時(shí)代吧。
遠(yuǎn)藤実:東京府東京市向島區(qū)(現(xiàn)在の東京都墨田區(qū)向島)に生まれ、第二次世界大戦時(shí)に新潟県西蒲原郡內(nèi)野町(現(xiàn)在の新潟市西區(qū)內(nèi)野)にて疎開生活を送っていた。
1957年の「お月さん今晩わ」にて作曲家としてデビュー.それ以後、現(xiàn)在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上(その大部分は演歌)と言われ舟木一夫、千昌夫など多くの歌手を育てた。
また自らの名をつけたレコード會社·ミノルフォン(現(xiàn):徳間ジャパンコミュニケーションズ)を創(chuàng)業(yè)したことでも有名である。
2003年、歌謡界から初めて文化功労者に選出された。
2008年12月6日10時(shí)54分、急性心筋梗塞のため東京都內(nèi)の病院で逝去。76歳沒。

