深入日本和服(和服的有關資料〈中日文〉)

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和服」,是日本人的傳統(tǒng)民族服裝,也是日本人最值得向世界夸耀的文化資產(chǎn).和服的穿著巧技,乃是隨著時代的風俗背景,琢磨考驗,蘊育而生.高雅而優(yōu)美的圖案,源自於日本民族對於山水的欣賞及對於風土的眷戀,乃至於對人本精神與情境的細膩感受.和服不僅融合了優(yōu)雅氣度與深層內(nèi)斂之本質(zhì),更反應了穿著之人的「心」與「動」.每一套優(yōu)美的和服,都經(jīng)精心裁制,講究穿著時的每一個細節(jié)及步驟.因此,不論是坐姿或站姿,都需經(jīng)由完整的學習訓練,而成為內(nèi)外在兼具的完美禮儀.和服又有另外一個名稱叫「賞花幕」,因為和服的圖案與色彩,反映了大自然的具體意象,當人們穿著和服走動時,會因為晃動而使得和服如同一塊動態(tài)的畫布
     和服的制作方式,須先決定布料所需的寬度,再以一標準化的單元,決定各部份的長度,男性與女性的和服寬度是不一樣的.做好布料的裁制分配之後,以直線裁成一塊塊直條的布,再一片一片加以組合,制作過程中不會有多馀的布料. 孩童的和服,則是在丈量布料時,便事先預留一部份縫份,以便隨著成長過程,適時地加長放寬,而修正成合適的尺寸.和服之所以采取這種設計與制作方式,其精神也符合日本民族「不浪費,代代相傳,多人能穿」的傳統(tǒng)風俗.過去有人認為,腰間纏著寬寬的,厚厚的一層帶子,是對身體進行束縛,是不科學,不衛(wèi)生的,但是,近年的研究結果表明,和服的腰帶不僅能平均地壓迫身體,使人體的血壓下降,可以將胃往上托,更是一種科學和衛(wèi)生的方做法.
     一, 和服的傳統(tǒng)
     和服是以中國唐代的服裝為基礎,亦有其悠久的發(fā)展史的服裝.西元8世紀,中國唐代的服裝傳入日本,對日本的和服帶來很大的影響.而今日日本人所穿的和服,大約是在600年前基本定型的.時代和服1: 和服女裝最早被稱為"貫頭衣″,男裝被稱為"橫幅″.所謂"貫頭衣″就是在布上挖一個洞,從頭上套下再用帶子系住兩腋下的布,再配上類似裙子的下裝,原始而實用.所謂"橫幅″就是將未經(jīng)裁減的布圍在身上,如同和尚的袈裟般露出右肩.
     2 :繩紋時代和彌生時代日本出現(xiàn)了兩種的服裝樣式.一種是套肩式圓領衫,類似今天的圓領針織套衫;另一種是對襟式,門襟采右衽,領尖至腰間,袖子為筒形袖,長度在膝蓋以上.與上衣配套的還有領巾,于須比,袴.領巾一般作為裝飾搭掛在兩肩,形式不限,通常依個人喜好而定.須比是一種比領巾大且長的一種帶狀織物,由肩垂至腰間〈古代日本妃女忌諱被男子看到,所以用於須比蒙面〉.袴原指穿在下身遮掩於上衣內(nèi)的布,此只由腿部連接的類似於褲子的下裝.
     3:日本的奈良時代正值中國的盛唐時代,日本派出大批的學者,僧侶到中國學習.這些遣唐使把唐代的文化,藝術,服飾,律令制度都帶回了日本.故此時期的日本服裝受中國影響深遠,但服裝色彩還是較簡單.
     4:平安時代國風盛行,和服漸漸擺脫外來的影響,發(fā)展出獨特的奢華與精致的特色,服裝色彩開始多樣化,衣袖也向?qū)挻蟀l(fā)展.女性的服裝主要是"十二單衣″和"唐衣″,男性的服裝主要是"束帶″,"直衣″和"狩衣″. 貴族社會的服裝是以絹為主,平民則是以麻為主,不可使用絹.
     5:鎌倉時代政府過度腐化,窮奢極欲,公卿統(tǒng)治衰退.此時期精干,簡易的武家文化出現(xiàn),服裝上也反映出此時期的特徵.當時中國正值元朝,元朝大軍連續(xù)數(shù)次侵犯日本,日本人為了便於戰(zhàn)爭,服裝再度恢復樸素,寬袖又變回窄袖.
     6:室町時代此期開始在衣服上印上家紋,便服設計開始禮服化.直垂和侍烏帽子是時髦的男裝,女裝則是朝簡單化發(fā)展.
     7:江戸時代江戶時代是日本服裝最繁盛的時期,男裝,女裝雖有變化,〈如女裝小袖形狀變的接近現(xiàn)代,而男裝流行羽織,帶結開始流行.〉但是,基本格局已定,到了明治時代,現(xiàn)代意義上的和服就定型了,此後一直沒有太大的變化.今天看到的和服,大都是延續(xù)了江戶時代的服裝特色.
     8:明治,大正,昭和時代現(xiàn)代日本的服飾雖為和洋并存,但在明治時期,女性仍著和服.男性方面,雖有一部份穿著洋服,但視和服為正式服裝.進入大正時期,男子流行穿著西裝,女性亦開始穿著西式服裝.而在和服方面,女性流行華麗的羽織.大正以後,因為戰(zhàn)爭,使得和服演進中斷,戰(zhàn)後才又繼續(xù)發(fā)展.
     二, 和服分類
     1: 浴衣 浴衣也是和服的一種,洗完澡後或夏天較熱季節(jié)時,.所穿的簡易和服,材質(zhì)大多為綿織品.明治時代 (十九世紀後半)之後,引進洋服,西服所以穿和服的人就相對變少了.近年來,在夏天的廟會,煙火大會中等熱鬧場所,浴衣就成了年輕女性夏季流行的新寵兒!
     2: 振袖振袖為未婚女性的禮裝,依袖子的長短分為大振袖,中振袖,小振袖.因為未婚女性專用衣裝,婚後須將袖子剪短.大振袖:花嫁新娘裝……等.中振袖:參加結婚喜宴,成人式,畢業(yè)式,謝師宴,茶會……等場合.小振袖:正式,非正式等各種場合都可穿.
     3: 留袖留袖為已婚女性的正式禮裝,多半穿著在結婚喜宴等正式場合.顏色為黑色,裙襬及袖口織有圖案,再搭配鑲有金,銀線的腰帶留袖又分黑留袖和色留袖.
     4: 訪問著訪問著有稱"色留袖" ( 色彩留袖 ),因下襬多半是較花俏的圖案,故并無婚之規(guī)定,穿著場合較廣.
     5: 花嫁衣裳花嫁新娘裝是女性一生中最美的時候.日本人結婚形態(tài)可分為兩種:傳統(tǒng)的神前結婚,西洋教堂結婚;傳統(tǒng)在神前結婚,花嫁裝是不可缺的.一般常見花嫁裝有三種:白無垢,打掛,振袖.頭上配戴及衣裳種類,會因家族規(guī)定及個人風格有所不同.
     6: 普段著種類諸多,依衣料的材質(zhì),織法,花紋,顏色……等,其稱呼不同.所謂普段著為日常衣裳,從居家休閑,逛街,購物,茶會,同學會……等場合,均可穿著.
     7: 畢業(yè)服專科以上的畢業(yè)典禮或?qū)W位受與儀式中,所穿著的衣裳.鞋子可分和服夾腳鞋和馬靴兩種.
     三, 和服款式
     和服款式十分之多,婚,宴,喪,禮,春,夏,秋,冬皆不同.按和服花紋和質(zhì)地也有貴賤之分.今天,和服不僅是人們婚,宴,喪,禮時喜愛的服裝,和服及其飾物還成了布置的裝飾品.例如新娘的結婚禮服,以同樣的圖案設計不同顏色來強調(diào)它的變化,一般正式新娘禮服要穿三層,此三層完全相同圖案的設計,惟以不同顏色,分別在不同場合穿著,如在夫家宴客穿著的顏色和在娘家宴客時的穿著,以不同的顏色為之.也有以代表長壽的松,鶴等吉祥圖案設計的結婚禮服.少女在正式場合的穿著,強調(diào)及地的長袖(振袖),其意義類似我國早期的三寸金蓮,意味著出身名門,不是勞動階級;而一般結過婚婦女的衣袖則是短的,已表示已婚的身份.春季:櫻花盛開或以春天的西洋花圖案為主題的設計,以粉色系較多.夏季:以清涼色系為考量,圖案常以浪花,水中嬉戲的魚兒,甚至水邊水草,花鳥為主題.秋季:以秋天的菊花為主題,添上一些蕭瑟的秋意,暗色系較多.冬季:以冬天的北國雪景意境為考量.
     各國都有屬於自己的代表服飾,好比中國唐代的胡漢相融,清代的旗袍,荷蘭的木鞋等等…也都有他各自的起源與歷史.而大多影響服飾發(fā)展的是地形,氣候,即獨有的歷史文化.這些傳統(tǒng)的文化同時帶動出新的時尚潮流.(資料搜集by一臺灣中學生)
     [NextPage]和服(わふく)とは、日本における民族服。狹義の著物(きもの)。男子の基本はツーピース型、女子はワンピース型である。
     和服は著付けが大変で、高価であり、また現(xiàn)代の日本人の生活様式からすると必ずしも実用的とはいえない。このため、七五三や成人式のような人生の節(jié)目節(jié)目で、また日本舞踴などの稽古事でのみ余喘を保っている…このように認識されていたが、昨今は事情が変わってきたようである。輸入製品等により安価で手に入るようになったことから、花火大會での浴衣のように和服がファッションとして再注目されてきており、古著等の安価な和服を?qū)熼Tに扱う呉服店も出現(xiàn)している。 また、「呉服」と呼ばれ由縁は、中國?三國時代の呉の國から日本に伝わった織り方によって作った織物とされる。
     歴史
     縄文時代?彌生時代 この時代はワンピース形式である??I文時代の貝塚から貫頭衣を著た埴輪が出土している。魏志倭人伝には男子は橫布を袈裟(けさ)のようにした上で頭に布を巻いた、*に近い格好であり、女子は布の真中に穴をあけ、腰部分を紐で結んだ貫頭衣を著ていた、とある。邪馬臺國女王卑彌呼についても「白い貫頭衣を著ていた」と觸れられている。庶民は麻、身分の高い人は絹を著ていた。
     古墳時代
     大陸の影響により、ツーピーススタイルになった。この時代の埴輪では上著としての貫頭衣と、腰巻きに巻く裳、もしくはズボンを太くしたような袴が使われていた。このころの貫頭衣は著易いように胸前が割れてあわせが作られ、脇下を縫うことで袖ができた。上著が詰襟型の「あげくび」と胸前であわせる「たれくび」とに分かれたのはこの頃である。
     奈良時代
     聖徳太子が冠位十二階により位階で冠の色を分け、大寶律令の衣服令により朝廷で著る服が定義され、禮服、朝服、制服が定められた。文官の禮服はわきの下を縫った縫腋の袍を、武官は腋の下を縫わない闕腋の袍を著るようにとされた。武官は文官と違い、活動し易くするためである。
     この時代の服飾は、小野妹子などに代表される遣隋使により中國の文化が輸入されたこともあって隋風のものであった。そのため、この時代まであわせは男女とも左前であったが、719年からは「初令天下百姓右襟」により、右前にすることと決まった。またこの時代に、下著としての小袖が唐より伝わっている。
     平安時代
     菅原道真により遣唐使が廃されると、國風文化が盛んになった。儀式行事が定著したことで、裝いも形式的になった。それは衣服の殆どがゆとりを持て余しがちになり、なかんずく武官の衣裝が実用性から遠ざかっていったことからも伺える。この頃の男子衣裝には、公式の場で使われる束?。à饯郡ぃ?、少し軽くした衣冠、私的な場で使われる直衣(のうし)、平民が著ていた水干(すいかん)、狩衣(かりぎぬ)などがあった。やがて狩衣は貴族の生活服になり、武士も好んで著た。武家の臺頭により公家は政治の世界から離れ、服飾も公家のものから武士のものへと変わった(この時代の女子衣服は十二単を參照)。
     鎌倉?室町時代
     政権を武家が擔うことにより、彼らが著ていた水干から直垂(ひたたれ)ができ、進んで室町時代に入ると直垂は武家の第一正裝となった。新しく大紋(だいもん)、素襖(すおう)が出現(xiàn)したのもこの時期である。江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。
     女子服飾も簡易化の一途をたどった。裳は徐々に短くなり袴へと転化、やがて無くなった(女子服飾のワンピース化)。この後は小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。小袖の上に丈の長い小袖を引っ掛けて著る打掛ができ、下著として著ていた小袖が表面へと出てくるようになった。
     江戸時代
     町人文化として小袖が大流行した。歌舞伎や芝居の錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、町人の裝いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規(guī)制しようとしたが、彼らの服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金のかかっているものを好むようになった。
     女子服飾は長い袂(たもと)の流行から振袖ができた。帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。
     鎖國により、外國から輸入されていた絹糸が國産化された。
     明治?大正時代
     身分により厳しく定められていた衣類の制限が解かれた。染色技術の発達により、いままでにないモダンな柄が好まれるようになった。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本國內(nèi)でも洋服がつくられるようになった。これにより卻って、今まで著ていた服が「和服」として認識されるようになった。洋服を著用しだした初期の頃は、上流階級でも洋服は貸衣裝屋でレンタルする時代であった。明治時代には洋服は主に男性の外出著や禮服であり、日常はほとんど和服が使われた。男性は軍隊では軍服を著せられ、また陸軍の軍服を規(guī)範につくられた詰め襟の學生服が男子學生の制服として採用された。
     女性は華族階級や教員の一部を除きもっぱら和服であったが、大正時代後期から、女學生の制服にそれまでの行燈袴に代えてセーラー服が採用される例が増える。関西で「あっぱっぱ」と呼ばれた簡単に縫えるワンピース型の洋服が考案され、女性の間に瞬く間に広まった。
     昭和
     戦時中男性には國民服、女性にはもんぺを著用することが強いられ、和服の著用はほとんど姿を消した。戦後もんぺを脫いだ女性たちは手製の洋服を著るようになり、和服は日常著として使われることが少なくなった。1960年代までは自宅での日常著として和服を著る男性が多くいたが(1970年代までの漫畫での描寫からも伺える)、次第に姿を消していった。現(xiàn)在では殆ど見られなくなっている。
     種類
     筒袖振袖留袖色留袖袴(はかま)
     訪問著付け下げ小紋色無地紬(つむぎ)
     ウール著物
     浴衣(ゆかた)
     羽織(はおり)
     束帯(そくたい)
     十二単(じゅうにひとえ)
     甚平 甚平(じんべえ) 作務衣(さむえ)
     丹前
     付屬品
     ショールコート長じゅばん半衿帯揚げ帯締め根付髪飾り櫛羽織ひも扇子ハンドバッグ懐紙雪下駄下駄 呉服現(xiàn)在では、『呉服』を「和服」の同義語として扱うことが多いが、元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と稱し、扱う店も別であった。