日本と西洋

字號(hào):

明治以後、日本人は歐米に大きな関心を寄せ、自國は後進(jìn)國であるという意識(shí)のもとに、急激に西洋文明を取り入れた。
    しかし、第二次大戦後、西洋文明との接觸がさらに密になった最近の日本では、明治以來の西洋観と対照的な西洋文明論が次々に登場(chǎng)した。會(huì)田雄次の西洋文明論は、その代表的なものの一つである(會(huì)田雄次「日本人の意識(shí)構(gòu)造」解説參照)。
    また、最近では評(píng)論家の村上兵衛(wèi)が、ヨーロッパ旅行の印象について書いている(「中央公論」一九六五年十二月號(hào))。そこで彼が指摘するいくつかを挙げれば、次のようである。
    ヨーロッパ文明というものが、自己の立場(chǎng)、主張、権利、要するに自己の存在の基盤を守ろうとする本能がいかに激しいか、ということ。それは同時(shí)にヨーロッパのナショナリズムを支えるものだが、日本人は同じ言葉を使っても、その意味でははるかにお人好しである。広島の原爆のあとには「二度と過ちを繰り返しません」と刻んだ碑を立てて、北海道の北端にはヴ?日本最北端の地?という観光客のための碑を立てて、條約に先立って領(lǐng)土を拋棄している。こういう現(xiàn)象は、ヨーロッパではけっして現(xiàn)れない現(xiàn)象である。
    また、ヨーロッパの街を歩いていて、いちばん眼につくのは犬を連れた市民だが、その動(dòng)物たちはよく馴らされている。このように動(dòng)物を訓(xùn)練することにかけて発達(dá)させた文化は、同時(shí)にヨーロッパ人自體の文化である。それに較べて、日本人は植物を育てることに長(zhǎng)じている。植物を育てるには、相手と同化する気持ちが必要だが、動(dòng)物をしつけるのはアメとムチによって、相手を自分の意思に屈伏させ従わせることである。
    そこに述べられている観察は當(dāng)っている。ヨーロッパと日本の比較の指標(biāo)として、前者には乾燥した風(fēng)土のなかで家畜を育てた牧畜民としての文化を、後者には濕潤(rùn)な環(huán)境の中で高い技術(shù)と根気によって稲を育て上げた文化を置くことは有効である。とくに日本人の伝統(tǒng)的な生活のなかに、牧畜という要素が非常に欠けている、ということを認(rèn)識(shí)するのは、日本文化理解の大きな手がかりの一つである。
    「解説」
    本書は、一九六六年に行われた著者の連続講義にもとづくものである。彼は、日本の文化人類學(xué)の第一世代というべき人人の一人で、これまで柳田國男らによって開拓されてきた日本民族學(xué)の伝統(tǒng)の上に、世界的な比較文化の方法論を?qū)Г毪欷?。彼は、本書のなかでは、その長(zhǎng)年の研究の上に立って、日本人およびその國家の起源、日本文化の特質(zhì)について、一般向けに、大膽に自分の考えを述べている。
    民族の起源というような問題は、人類學(xué)、先史學(xué)、比較言語學(xué)、民族學(xué)など、諸科學(xué)の協(xié)力なしには成果を上げることができないが、じっさい石田はこうした學(xué)際的な研究を組織するのにも大きな力を盡くした。従來の日本の歴史學(xué)、考古學(xué)は、日本列島には石器時(shí)代以來、単一の民族が住み、その文化が內(nèi)的に進(jìn)化発展したと考える傾向がつよかったが、石田は外との接觸や混合の契機(jī)を重視した。稲作の伝播については、琉球づたいの柳田説を取らず、南朝鮮経由と考え、また、大和調(diào)廷については江上の騎馬民族による征服説を、おおむね支持している。