日本文化の特質(zhì)

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日本民族を他民族と比較するとき、地理的な境界線として大きな問題となるのは、対馬海峽である。古代には、日本と朝鮮のあいだには深い関係があり、ある時(shí)期には同一文化圏に屬していたが、今日、両者の文化は異質(zhì)である。対馬海峽の線をこえて、九州、西日本から、日本の北の果てまで浸透し、大陸ではすでになくなったものが日本に殘っている例があると同時(shí)に、朝鮮半島の南端までやってきても、ついに海峽をこえて日本に入らなかったものが、歴史的に數(shù)多くある。
    朝鮮で生活用具として使われる角(つの)は、日本では使用されたことがない。皮袋の形をした土器は、朝鮮人の生活の中に深く入っているが、日本では古墳時(shí)代に見られるだけで、以後はまったくない。中國(guó)および朝鮮で使われる鍵―それは主婦のシンボルである―も、対馬海峽をこえることはなく、日本における主婦のシンボルはおしゃもじである。さらに、キリスト教や儒教が朝鮮人の生活の中に深く入っているのに較べると、日本人の中には、それは根をおろしていない。儒教は、江戸時(shí)代の少數(shù)の武士の生活の中には入ってきたが、一般の民衆(zhòng)、とくに農(nóng)民には、儒教的な倫理や世界観の影響はほとんど見られないのである。
    日本に入らなかった制度の顕著な例は、宦官(かんがん)制度である。中國(guó)から西ヨーロッパにわたり、ユーラシア大陸にひろまった宦官制度―牧畜民族の雄を去勢(shì)する知識(shí)にもとづく―は、朝鮮まで伝わったが、ついに日本には入らなかった。
    日本文化の特質(zhì)を考えるとき、その手がかりが二つある。その一つは、日本文化は水田耕作をおこなう稲作文化圏の特質(zhì)をもっていることである。この稲作地帯は、歴史的には南シナガ中心で、インド、インドネシアから沖縄、日本、朝鮮にわたる、いわゆるモンスーン地帯として知られる溫暖濕潤(rùn)の地域である。この地帯の住民に共通する特質(zhì)は、稲作技術(shù)を基礎(chǔ)とした一連の生活技術(shù)、およびそれにともなう稲に関する農(nóng)耕儀禮、そしれ森羅萬象に生命現(xiàn)象を意識(shí)するアニミズム的観念である。しかし、同時(shí)に同じモンスーン文化圏においても、さきに觸れた対馬海峽の線に注目しなければならない。
    考古學(xué)の上から、南朝鮮と西日本は、彌生時(shí)代から古墳時(shí)代にかけて、ほとんど一つの文化圏として類別される。にも拘らず、今日、朝鮮民族と日本民族のあいだに一線がひかれるようになったのは、それ以前の日本の縄文時(shí)代人の文化の伝統(tǒng)、ならびにそれ以後の歴史時(shí)代の條件のちがいが大きく関與したためであろう。したがって、日本文化の特質(zhì)を考える第一の手がかりは、生活の基盤としての日本の農(nóng)業(yè)、および農(nóng)民の生活を、今日の文化の特質(zhì)との関連において考えることである。
    第二の手がかりは、日本が歴史時(shí)代に入って千數(shù)百年のあいだ、日本民族は、日本列島のなかで同質(zhì)の文化を育ててきた、という事実である。日本は、長(zhǎng)期間、侵略や征服にあうことなく、ぬくぬくと育ち、外の文化には敏感でたちまちそれを摂取したが、日本文化には封鎖的な安定性があった。日本人は、民族としても、その文化においてもエンドガマスでありながら、外の文化を急速に取り入れるという、一見矛盾した特徴を持つ。日本の民族としての生命力、若さが保たれたのも、そのゆえであろう。しかし、同時(shí)に、エンドガマスな社會(huì)であるため、多弁の必要がなく、論理學(xué)や修辭學(xué)が発達(dá)しないという特徴を持った。