三世紀(jì)ごろ、宗教的な祭司が政治経済の指導(dǎo)者となり、神政的な小國家をつくりはじめ、その間に利害の対立が生じ、軍事的色彩をつよめていった。三世紀(jì)から七世紀(jì)にいたる、古墳時(shí)代のある時(shí)期に、今日の皇室の祖先である大和朝廷による國土統(tǒng)一があり、日本國家が生れた。
當(dāng)時(shí)、文化の性格が祭祀的なものから軍事的なものへと転換したのは、ある異質(zhì)的なものが、海外から日本に登場(chǎng)したことを物語る。その変化の萌(きざ)しは四世紀(jì)の末にはじまり、五世紀(jì)にははっきりとあらわれる。江上波夫の「騎馬民族説」によれば、その推移はつぎのように説明される。
すなわち、それまで主として朝鮮半島を支配していた、北方の騎馬民族の系統(tǒng)である倭(わ)王が、支配の重點(diǎn)を日本列島に移した。しかし、この新來者は少數(shù)の軍事勢(shì)力だったので、言語、文化の面では日本人のなかに同化、吸収されてしまった、と。つまり、大陸のより高度の文化を受容する以前に、日本民族の基本的性格は、すでにできあがっていたのである。
當(dāng)時(shí)、文化の性格が祭祀的なものから軍事的なものへと転換したのは、ある異質(zhì)的なものが、海外から日本に登場(chǎng)したことを物語る。その変化の萌(きざ)しは四世紀(jì)の末にはじまり、五世紀(jì)にははっきりとあらわれる。江上波夫の「騎馬民族説」によれば、その推移はつぎのように説明される。
すなわち、それまで主として朝鮮半島を支配していた、北方の騎馬民族の系統(tǒng)である倭(わ)王が、支配の重點(diǎn)を日本列島に移した。しかし、この新來者は少數(shù)の軍事勢(shì)力だったので、言語、文化の面では日本人のなかに同化、吸収されてしまった、と。つまり、大陸のより高度の文化を受容する以前に、日本民族の基本的性格は、すでにできあがっていたのである。