學生:明治時代の初めに、福沢諭吉という人が、「人間には上下の區(qū)別がない」という新しい思想を教えたと習いましたが、この思想は昔から日本にあったものではありませんね。
先生:そうです。明治維新になって西洋から輸入された新しい思想です。
學生:福沢はどういうふうにして新しい思想を持つようになったんですか?
先生:まず、福沢という人は、身分の低い侍の家に生まれて、小さい時から身分の高い侍やその子供達から差別され、「上下の區(qū)別」についていろいろ考えさせられていました。同じ人間なのに彼らが上で自分が下というのはどう考えても変だ、と思っていました。
學生:じゃあ、子供の時から「上下の區(qū)別」はおかしいと思っていたんですね。
先生:ええ、そうです。西洋の思想が入って來た時、自分が子供の頃から考えていたことが新しい思想と同じだったので、自信を持って平等の思想を日本人に教えたんです。
學生:福沢は寺子屋で勉強したんですか?
先生:いいえ。寺子屋で勉強したのは町人や農(nóng)民の子供です。福沢は侍の子供だったので、寺子屋とは違った學校で勉強しました。普通の子供は6才ぐらいで勉強をはじめましたが、福沢の場合は遅くて13、4才になってからです。
學生:ずいぶん遅いですね。
先生:そうですね。普通の子供は初めに読み書き?そろばんなどを習い、後で漢學を習いました。福沢の場合はちょっと違っていました。
學生:英語も勉強したそうですね。
先生:はい。しかし、英語を勉強するようになったのはもう少し後です。漢學を勉強していた時に、福沢はまだ西洋の新しい考え方について何も知りませんでした。ちょうどその頃ペリー(Commodore Perry)が日本に來て日本が開國することになったので、福沢は西洋のことを勉強するために長崎に行きました。
學生:先生、でも、その頃長崎にはオランダ人がいてオランダ語しか勉強できなかったんではありませんか?
先生:ええ、そうです。ですから、長崎で蘭學を勉強したんです。
學生:じゃあ、英語を勉強したのはもっと後なんですか?
先生:ええ、福沢は長崎の後大阪にいって勉強し、その後江戸にもいって勉強したんです。
學生:漢學と蘭學を勉強していたのに英語も勉強しようとしたのはどうしてですか?
先生:それは、ある日橫浜にいって外國人と話をしてみたんです。ところが、自分が勉強しているオランダ語が全然わかってもらえなかったんです。そればかりではなく、その外國人の言っていることが全くわかりませんでした。
學生:福沢が話をしたのはアメリカ人だったのですか?
先生:イギリス人とアメリカ人、つまり、英語を話す人々だったんです。この時はじめてこれからは英語がわからなくてはだめだということがわかったんです。
學生:福沢は外國のことを良く知りたいと思っていたようですが、外國にいったことがあるんですか?
先生:ええ、三回も行きました。
學生:えっ、三回もですか?
先生:ええ、初めは1860年にアメリカに來ました。50日くらいカリフォルニアにいて、自分の目でアメリカをくわしく見ました。
學生:その頃日本とアメリカはとても違っていたので、とても勉強になったでしょうね。
先生:そうでしょうね。帰る時にウェブスターの辭書を買って、日本でよく使ったそうです。
學生:ほかにどこにいったんですか?
先生:アメリカに來てから二年後に今度はヨーロッパに行きました。
學生:一人でいったんですか?先生:いいえ。幕府の通訳として幕府の人々といったんです。この旅行は長くて、一年かかりました。
學生:ずいぶん長いですね。
先生:フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルの國々を見て歩きました。英語の本をたくさん買って帰ったそうです。
學生:その頃はまだ明治維新になる前ですね?
先生:そうです。
學生:三回目の旅行も明治維新の前ですか?
先生:ええ、そうです。明治維新は1868年ですが、その前の年にまたアメリカに來ました。
學生:まだ飛行機もない不便な時代によく三回も外國に行きましたね。
先生:明治維新の前に三回も外國に行けたのは福沢くらいのものでしょう。
學生:福沢は「慶応義塾(けいおうぎじゅく)」という大學を作ったので有名ですが、それはいつですか?
先生:初めは寺子屋のような小さい學校を作ったんですが、それは1858年です。10年後にその學校に「慶応義塾」という名前をつけました。福沢については英語で書かれた本がたくさんあるので、そういう本を読めば、福沢についてもっと良くわかりますよ。
學生:そうですね。自分で少し読んでみます。
先生:そうです。明治維新になって西洋から輸入された新しい思想です。
學生:福沢はどういうふうにして新しい思想を持つようになったんですか?
先生:まず、福沢という人は、身分の低い侍の家に生まれて、小さい時から身分の高い侍やその子供達から差別され、「上下の區(qū)別」についていろいろ考えさせられていました。同じ人間なのに彼らが上で自分が下というのはどう考えても変だ、と思っていました。
學生:じゃあ、子供の時から「上下の區(qū)別」はおかしいと思っていたんですね。
先生:ええ、そうです。西洋の思想が入って來た時、自分が子供の頃から考えていたことが新しい思想と同じだったので、自信を持って平等の思想を日本人に教えたんです。
學生:福沢は寺子屋で勉強したんですか?
先生:いいえ。寺子屋で勉強したのは町人や農(nóng)民の子供です。福沢は侍の子供だったので、寺子屋とは違った學校で勉強しました。普通の子供は6才ぐらいで勉強をはじめましたが、福沢の場合は遅くて13、4才になってからです。
學生:ずいぶん遅いですね。
先生:そうですね。普通の子供は初めに読み書き?そろばんなどを習い、後で漢學を習いました。福沢の場合はちょっと違っていました。
學生:英語も勉強したそうですね。
先生:はい。しかし、英語を勉強するようになったのはもう少し後です。漢學を勉強していた時に、福沢はまだ西洋の新しい考え方について何も知りませんでした。ちょうどその頃ペリー(Commodore Perry)が日本に來て日本が開國することになったので、福沢は西洋のことを勉強するために長崎に行きました。
學生:先生、でも、その頃長崎にはオランダ人がいてオランダ語しか勉強できなかったんではありませんか?
先生:ええ、そうです。ですから、長崎で蘭學を勉強したんです。
學生:じゃあ、英語を勉強したのはもっと後なんですか?
先生:ええ、福沢は長崎の後大阪にいって勉強し、その後江戸にもいって勉強したんです。
學生:漢學と蘭學を勉強していたのに英語も勉強しようとしたのはどうしてですか?
先生:それは、ある日橫浜にいって外國人と話をしてみたんです。ところが、自分が勉強しているオランダ語が全然わかってもらえなかったんです。そればかりではなく、その外國人の言っていることが全くわかりませんでした。
學生:福沢が話をしたのはアメリカ人だったのですか?
先生:イギリス人とアメリカ人、つまり、英語を話す人々だったんです。この時はじめてこれからは英語がわからなくてはだめだということがわかったんです。
學生:福沢は外國のことを良く知りたいと思っていたようですが、外國にいったことがあるんですか?
先生:ええ、三回も行きました。
學生:えっ、三回もですか?
先生:ええ、初めは1860年にアメリカに來ました。50日くらいカリフォルニアにいて、自分の目でアメリカをくわしく見ました。
學生:その頃日本とアメリカはとても違っていたので、とても勉強になったでしょうね。
先生:そうでしょうね。帰る時にウェブスターの辭書を買って、日本でよく使ったそうです。
學生:ほかにどこにいったんですか?
先生:アメリカに來てから二年後に今度はヨーロッパに行きました。
學生:一人でいったんですか?先生:いいえ。幕府の通訳として幕府の人々といったんです。この旅行は長くて、一年かかりました。
學生:ずいぶん長いですね。
先生:フランス、イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、ポルトガルの國々を見て歩きました。英語の本をたくさん買って帰ったそうです。
學生:その頃はまだ明治維新になる前ですね?
先生:そうです。
學生:三回目の旅行も明治維新の前ですか?
先生:ええ、そうです。明治維新は1868年ですが、その前の年にまたアメリカに來ました。
學生:まだ飛行機もない不便な時代によく三回も外國に行きましたね。
先生:明治維新の前に三回も外國に行けたのは福沢くらいのものでしょう。
學生:福沢は「慶応義塾(けいおうぎじゅく)」という大學を作ったので有名ですが、それはいつですか?
先生:初めは寺子屋のような小さい學校を作ったんですが、それは1858年です。10年後にその學校に「慶応義塾」という名前をつけました。福沢については英語で書かれた本がたくさんあるので、そういう本を読めば、福沢についてもっと良くわかりますよ。
學生:そうですね。自分で少し読んでみます。

