メディアのあり方、そして我らは

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1980年代から急速に発展してきた情報(bào)化。
    コンピュータやインターネットなどを駆使した様々な情報(bào)が現(xiàn)代の我々の周りを取り巻き、それらはいまや我々の生活に不可欠なものとなっている。
    権力が情報(bào)を支配し、情報(bào)が國民をコントロールする時(shí)代が、まさに到來しつつある。
    この様な情報(bào)化により、以前と違って膨大な資料の中から手探りしなくても簡単な手順ですぐに知りたいものを手元に置くことができる。
    また、情報(bào)源が豊富であるということも非常に魅力的なことだ。
    はたからみるとメリットだけが存在する様に感じられる現(xiàn)代の情報(bào)化だが、ふと考えてみると我々は知らぬ間にこの現(xiàn)象に溺れている様にも思える。
    近頃のジャーナリズムの動向を見てみると、國民の「知りたい」という要求に答えようとする行動の意義と、単なる″覗き見″のような 行動とを勘違いしているような気がする。
    ダイアナ元妃の激突死でパパラッチを始めとするメディアのあり方が問われたが、これは情報(bào)の受け側(cè)である我々にとっても深く心に殘る出來事である。
    確かにスキャンダルは私達(dá)の注意を引くし、心の底にある微妙な興味を沸かせる事も事実である。
    だが、部數(shù)や視聴率のためとはいえ、私生活を覗き見するような メディアは明らかに負(fù)のジャーナリズムといえるのではないだろうか。
    憲法で保障される表現(xiàn)の自由と、受け側(cè)の権利とのバランスを保つのはかなり困難なことではあるが、何よりも大切なのは情報(bào)を提供する側(cè)も、そしてその情報(bào)の受け側(cè)も獨(dú)自のモラルを持ち、それに従う自分との約束を果たしていくということだといえるであろう。