拒ぐはたそや敵の軍、
かれ中原の一奇才
韜略深く密ながら
君に向かわんすべぞなき。
納めも受けむ贈(zèng)られし
素衣巾幗のあなどりも、
陣を堅(jiān)うし手を束ね、
魏軍守りて出でざりき。
土井晩翠は、「星落秋風(fēng)五丈原」の中で、こう歌っている。時(shí)は建興十二年のことであった。諸葛孔明は六たび祁山(甘粛省西和県)に出て、司馬仲達(dá)の率いる魏軍と対した。賢い仲達(dá)は、蜀軍の補(bǔ)給路の遠(yuǎn)いことを考えて、持久戦に持ちこもうとした。さすがの孔明も手をやいて、なんとか魏軍の軽挙妄動(dòng)を誘って、そこを攻めたいと思っていた。
既に孔明は渭水の五丈原(陝西省び県西南)に陣地を移して、遊撃するきっかけをつかもうとしていた。そこで仲達(dá)の所へ使者をやって、婦人の髪飾りと婦人の服(これを婦人の飾りだけと見る説もある)を送った。
これは仲達(dá)のやり方を「女々しいぞ」と非難し、相手を憤激させて戦わせようとしたものである。しかし仲達(dá)は全く意に介しないで、孔明のことしか使者に聞かなかった。使者は訪ねられるままに言った。
「公は朝早くから夜遅くまで起きておられます。
賞罰は公平を期してみずから當(dāng)られます。
お食事はわずかしかいただきません?!?BR> 仲達(dá)はこれを聞いて、まわりの者に、
「あんな激務(wù)ではとても長生きできまいぞ。
やがて決戦の時(shí)が來よう?!工日Zった。
同じ年の秋も深くなって、「清渭の流れ水やせ」る頃ともなった。たまたま大きな星が赤く燃える尾を引きながら、蜀軍の上に落ちるのが見えた。仲達(dá)は孔明が病に倒れたのではないかと考え、にわかに攻撃しようとした。死の近いことを悟った孔明は、「おもわやつれし病める身」
を起して、自分の死を魏軍にわからせまいとするのであった。彼はかねて作っておいた、彼と等身大の坐像を車にのせて、いかにも彼が陣頭指揮をしていると見せながら、全軍を退卻させるように命じた。
仲達(dá)ははじめ蜀の陣地の変わりないのを見て一旦攻撃を中止したが、ひそかに斥候をやって様子をさぐらせた。孔明を失った蜀軍は、今や引上げの準(zhǔn)備に狂奔していた。農(nóng)民の中にはこのことを仲達(dá)に急いで知らせる者もいた。時(shí)機(jī)到來と思った仲達(dá)は、五丈原へと総攻撃の火ぶたを切った。しかし蜀の陣営に著いた時(shí)、もはや人影はなかった。仲達(dá)は先頭に立って追いかけた。するとふと、前方の山かげから蜀の旗が見え、勇ましい陣太鼓が響いてきた。その上車上に指揮をとるのは、なんと孔明ではないか。まさに蜀軍の押し寄せんとする勢(shì)いに、仲達(dá)は思わず逃げ出した。実際は孔明の信任厚い姜維のしたことであったが、仲達(dá)はすっかり孔明の計(jì)略にかかったと思ったのである。
これを見た民衆(zhòng)は、?死せる諸葛生ける仲達(dá)を走らす?という諺を作ったという。これは葛と達(dá)に韻を踏み、死後なお輝く孔明を讃え、仲達(dá)の臆病を笑っている。しかしこれを聞いた仲達(dá)は、
「生きている孔明の策略はわかるが、死んだ孔明のはわからないさ」と言った。
また仲達(dá)は孔明の作った五丈原の陣地を見て、その巧みなことに感嘆したとも伝えられる。
孔明亡きあと、蜀はついに魏に亡ぼされた。
これは?通鑑綱目?と?十八史略?によったが、?晉書?にも出ている。
かれ中原の一奇才
韜略深く密ながら
君に向かわんすべぞなき。
納めも受けむ贈(zèng)られし
素衣巾幗のあなどりも、
陣を堅(jiān)うし手を束ね、
魏軍守りて出でざりき。
土井晩翠は、「星落秋風(fēng)五丈原」の中で、こう歌っている。時(shí)は建興十二年のことであった。諸葛孔明は六たび祁山(甘粛省西和県)に出て、司馬仲達(dá)の率いる魏軍と対した。賢い仲達(dá)は、蜀軍の補(bǔ)給路の遠(yuǎn)いことを考えて、持久戦に持ちこもうとした。さすがの孔明も手をやいて、なんとか魏軍の軽挙妄動(dòng)を誘って、そこを攻めたいと思っていた。
既に孔明は渭水の五丈原(陝西省び県西南)に陣地を移して、遊撃するきっかけをつかもうとしていた。そこで仲達(dá)の所へ使者をやって、婦人の髪飾りと婦人の服(これを婦人の飾りだけと見る説もある)を送った。
これは仲達(dá)のやり方を「女々しいぞ」と非難し、相手を憤激させて戦わせようとしたものである。しかし仲達(dá)は全く意に介しないで、孔明のことしか使者に聞かなかった。使者は訪ねられるままに言った。
「公は朝早くから夜遅くまで起きておられます。
賞罰は公平を期してみずから當(dāng)られます。
お食事はわずかしかいただきません?!?BR> 仲達(dá)はこれを聞いて、まわりの者に、
「あんな激務(wù)ではとても長生きできまいぞ。
やがて決戦の時(shí)が來よう?!工日Zった。
同じ年の秋も深くなって、「清渭の流れ水やせ」る頃ともなった。たまたま大きな星が赤く燃える尾を引きながら、蜀軍の上に落ちるのが見えた。仲達(dá)は孔明が病に倒れたのではないかと考え、にわかに攻撃しようとした。死の近いことを悟った孔明は、「おもわやつれし病める身」
を起して、自分の死を魏軍にわからせまいとするのであった。彼はかねて作っておいた、彼と等身大の坐像を車にのせて、いかにも彼が陣頭指揮をしていると見せながら、全軍を退卻させるように命じた。
仲達(dá)ははじめ蜀の陣地の変わりないのを見て一旦攻撃を中止したが、ひそかに斥候をやって様子をさぐらせた。孔明を失った蜀軍は、今や引上げの準(zhǔn)備に狂奔していた。農(nóng)民の中にはこのことを仲達(dá)に急いで知らせる者もいた。時(shí)機(jī)到來と思った仲達(dá)は、五丈原へと総攻撃の火ぶたを切った。しかし蜀の陣営に著いた時(shí)、もはや人影はなかった。仲達(dá)は先頭に立って追いかけた。するとふと、前方の山かげから蜀の旗が見え、勇ましい陣太鼓が響いてきた。その上車上に指揮をとるのは、なんと孔明ではないか。まさに蜀軍の押し寄せんとする勢(shì)いに、仲達(dá)は思わず逃げ出した。実際は孔明の信任厚い姜維のしたことであったが、仲達(dá)はすっかり孔明の計(jì)略にかかったと思ったのである。
これを見た民衆(zhòng)は、?死せる諸葛生ける仲達(dá)を走らす?という諺を作ったという。これは葛と達(dá)に韻を踏み、死後なお輝く孔明を讃え、仲達(dá)の臆病を笑っている。しかしこれを聞いた仲達(dá)は、
「生きている孔明の策略はわかるが、死んだ孔明のはわからないさ」と言った。
また仲達(dá)は孔明の作った五丈原の陣地を見て、その巧みなことに感嘆したとも伝えられる。
孔明亡きあと、蜀はついに魏に亡ぼされた。
これは?通鑑綱目?と?十八史略?によったが、?晉書?にも出ている。

