それは周の赧王の八年頃のことと思われる。孟子はその理想である王道の政治を説いて諸國をめぐり歩いたが、いずれの國でも意見が容れられぬために、郷里の鄒(山東省鄒県)に帰っていた。すでに六十歳をだいぶ越していた。その頃滕(山東省滕県)という小國では定公が薨じ、その子の文公が即位したばかりであった。文公はかねがね孟子に私淑していたので、孟子を招いて政治の顧問とした。文公はさっそくいかに國を治めたらよいかをたずねた。孟子も文公の情熱に感じてここに堂々と彼の見解を述べたが、これが有名な井田説である。
次にその要旨を伝えよう。
「詩経」の中に、「春は種まきなどで忙しいから、冬の間に家屋の修理を急げ」と戒めた詩があるが、國政もまず民衆(zhòng)の経済生活の安定から始まる。恒産つまり一定の生業(yè)と、恒心つまり変らぬ節(jié)操との関係は、「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」である。恒心がないと、どんな悪いことでもする。民衆(zhòng)が罪に落ちてから罰するのでは、法の捕網(wǎng)にかけるようなものだ。
昔夏は一人に五十畝、殷は一人に七十畝、周は百畝の田を與えて、その十分の一を租稅としていた。夏の法は貢法と言い、數(shù)年間の平均収入を見て一定額を納めさせたが、豊年にはあり余り、兇年には足りなくても取るという欠點があった。殷の法は助法と言い、私有の田と公田にわけ、公田からの収穫を納めさせた。周の法は徹法と言うが、助法を受け継いでいる點を考えると、助法こそ模範(fàn)とすべきであろう。
こうして孟子は「恒産」を具體化したあと、「恒心」として學(xué)校における道徳教育を強調(diào)している。続いて文公は臣下の畢戦に井田法について質(zhì)問させたことが見えるが、ここで孟子は助法を更に明確に説いている。
一體國家は君子(治者)と野人(被治者)より成立するが、その體制を維持するにはまず君子の祿位の世襲制を認(rèn)めるべきである。野人の方は助法による九分の一稅を確立する。そのため一里四方の土地を井字型に區(qū)分し、九百畝のまん中に百畝の公田をとり、殘りの八百畝は八軒の家でそれぞれ百畝ずつ私有する。公田の共同作業(yè)が終ってから自分の田の方にとりかかる。民衆(zhòng)は相互扶助の體制ができ上がるので、土地を離れたりしなくなるだろう。
以上によって明らかなことは、この井田法は原始共産的なものであったろうということである。しかしその前提として治者と被治者を區(qū)別する主張は、後世の支配階級に孟子が擔(dān)がれたの理由となっている。
「恒産なき者は恒心なし」は「孟子」の?滕文公篇?にある、以上の話に出ているが、?梁恵王篇?にも出てくる?!競}稟実ちて禮節(jié)を知る」のように、孔?孟の主張が単なる修身ではなかったことを告げている。
次にその要旨を伝えよう。
「詩経」の中に、「春は種まきなどで忙しいから、冬の間に家屋の修理を急げ」と戒めた詩があるが、國政もまず民衆(zhòng)の経済生活の安定から始まる。恒産つまり一定の生業(yè)と、恒心つまり変らぬ節(jié)操との関係は、「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」である。恒心がないと、どんな悪いことでもする。民衆(zhòng)が罪に落ちてから罰するのでは、法の捕網(wǎng)にかけるようなものだ。
昔夏は一人に五十畝、殷は一人に七十畝、周は百畝の田を與えて、その十分の一を租稅としていた。夏の法は貢法と言い、數(shù)年間の平均収入を見て一定額を納めさせたが、豊年にはあり余り、兇年には足りなくても取るという欠點があった。殷の法は助法と言い、私有の田と公田にわけ、公田からの収穫を納めさせた。周の法は徹法と言うが、助法を受け継いでいる點を考えると、助法こそ模範(fàn)とすべきであろう。
こうして孟子は「恒産」を具體化したあと、「恒心」として學(xué)校における道徳教育を強調(diào)している。続いて文公は臣下の畢戦に井田法について質(zhì)問させたことが見えるが、ここで孟子は助法を更に明確に説いている。
一體國家は君子(治者)と野人(被治者)より成立するが、その體制を維持するにはまず君子の祿位の世襲制を認(rèn)めるべきである。野人の方は助法による九分の一稅を確立する。そのため一里四方の土地を井字型に區(qū)分し、九百畝のまん中に百畝の公田をとり、殘りの八百畝は八軒の家でそれぞれ百畝ずつ私有する。公田の共同作業(yè)が終ってから自分の田の方にとりかかる。民衆(zhòng)は相互扶助の體制ができ上がるので、土地を離れたりしなくなるだろう。
以上によって明らかなことは、この井田法は原始共産的なものであったろうということである。しかしその前提として治者と被治者を區(qū)別する主張は、後世の支配階級に孟子が擔(dān)がれたの理由となっている。
「恒産なき者は恒心なし」は「孟子」の?滕文公篇?にある、以上の話に出ているが、?梁恵王篇?にも出てくる?!競}稟実ちて禮節(jié)を知る」のように、孔?孟の主張が単なる修身ではなかったことを告げている。

