遠(yuǎn)交近攻

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魏の策士范雎は他國に內(nèi)通しているとの讒言から危うく命を殞しかけたが、同情者鄭安平に匿まわれ、秦の使者王稽に従って秦都咸陽に入った。しかし、「秦王の國は累卵により危し」という率直な言葉は喜ばれず、しばらくは得意の弁舌を振う機(jī)會もなかった。
    昭襄王の三十六年、待ちに待った機(jī)會が訪れた。當(dāng)時、秦では昭襄王の母宣太后の弟の穣侯が宰相の地位を占め、絶大な勢力を持っていた。
    その勢力をいいことに斉を侵攻して、自分の領(lǐng)土の陶を拡張しようと企てたのである。これを知った范雎は、王稽を通じて王に文書を差出し拝謁を願いでた。
    「人主は愛する所を賞して悪む所を罰します。
    明主はこれとおもむきを異にし、賞はかならず有功に加え、刑は必ず有罪に下すのです?!?BR>    にはじまる一文は、幸いに王の意にかなった。推薦者の王稽にもお褒めの言葉をたまわったほどである。
    いよいよ人払いをして引見してからは、へりくだって謹(jǐn)んで教えを請うのだった。
    范雎は言上する。
    「韓魏の両國を通り越してあの強(qiáng)い斉を攻められるのは策を得ておりません。少しぐらいの兵を動かしたところで斉はびくともしませんし、そうかといって大兵を出せば秦のためによろしくありません。なるたけ自分の國の兵を節(jié)約して韓?魏の兵を全面的に動員しようというのが王のお考えですが、同盟國を信用できないことを知りながら、人の國を越えて攻めるのはいかがでしょうか。斉の■王(びんおう)が楽毅に敗れた原因は、遠(yuǎn)くはなれた楚を討ったために、同盟國の負(fù)擔(dān)が重くなりすぎて、離反してしまったからです。そして天下のいい笑いものにされました。得をしたのは隣りの韓と魏で、いわば賊軍に兵を貸しあたえ、泥棒に食糧をあたえたようなもの。いま王が採るべき方法としては、遠(yuǎn)い國と交わりを結(jié)んで、近い國を攻める、すなわち遠(yuǎn)交近攻の策が一番よろしいかと存じます。一寸の土地を得れば王の寸土ですし、一尺の土地を得れば王の一尺の地ではありませんか。利害損失がこれほど明らかなのに、遠(yuǎn)くを攻めるのは間違ってはおりますまいか?!工?。
    以上は、ほぼ『戦國策」の「秦下、昭襄王」に拠ったが、『史記」の「范雎?蔡沢列伝」の文章もほぼ同文である。
    これから范雎は秦の客卿となり、さらに宰相に任じられたうえ、応侯に封ぜられ、軍事関係の仕事を一手にひきうけることになるのである。
    そして、以降遠(yuǎn)交近攻の策は秦の國是として、ついに天下統(tǒng)一をもたらす指導(dǎo)原理の役割をはたすにいたったのだった。