染め物の一種に、藍(lán)染めというのがある。染料の藍(lán)玉は青味は帯びているものの、どちらかと言うと黒い色だ。この藍(lán)玉を溶かした藍(lán)瓶に、反物を入れて引き上げると、最初は緑がかった色が見る見る青くなる。
この素樸な驚きは今も昔も変わらない。
中國の儒家 筍況(B.C.300~240頃) の言葉
學(xué)は、もって已むべからず。
青は藍(lán)より出でて藍(lán)より青く、氷は 水これを為して、水よりも寒し。(荀子勧學(xué)篇)
學(xué)問はいつまでも止まると雲(yún)う事はないし、弛んではならない。
青がもとの藍(lán)よりも青いように、氷がもとの水よりも冷徹なように、師を淩ぐ學(xué)の深さを持った弟子も現(xiàn)れるものだ?
ここから弟子が師よりも優(yōu)ることを、この言葉で表すようになった。
「出藍(lán)」とか、「出藍(lán)の譽れ」というのもここから來ている。
南北朝時代の北朝に李謐という人物が居た、李謐は初め孔潘に就いて學(xué)んでいたが、その進(jìn)歩はめざましかった。數(shù)年の後、孔潘は李謐の方が自分より學(xué)問が進(jìn)んだと考え、自ら進(jìn)んで李謐の弟子になった。この時、同門のものは筍況のこの言葉を引用して、李謐の優(yōu)秀さと孔潘の実直さを褒め稱えている。
近年の師と仰がれる人々で、筍況のこの言葉を真に理解している人は少ない。弟子はいつまで経っても弟子であり、一人前或いは自分と同等と認(rèn)めても、その弟子の「弟子」になることが出來ない。
將に「學(xué)は、もって已むべからず」である。この「青は藍(lán)より出て藍(lán)より青し」に觸れたら、この事も思い出して欲しい。
「過ちては、則ち改めるに憚ること勿れ」
この素樸な驚きは今も昔も変わらない。
中國の儒家 筍況(B.C.300~240頃) の言葉
學(xué)は、もって已むべからず。
青は藍(lán)より出でて藍(lán)より青く、氷は 水これを為して、水よりも寒し。(荀子勧學(xué)篇)
學(xué)問はいつまでも止まると雲(yún)う事はないし、弛んではならない。
青がもとの藍(lán)よりも青いように、氷がもとの水よりも冷徹なように、師を淩ぐ學(xué)の深さを持った弟子も現(xiàn)れるものだ?
ここから弟子が師よりも優(yōu)ることを、この言葉で表すようになった。
「出藍(lán)」とか、「出藍(lán)の譽れ」というのもここから來ている。
南北朝時代の北朝に李謐という人物が居た、李謐は初め孔潘に就いて學(xué)んでいたが、その進(jìn)歩はめざましかった。數(shù)年の後、孔潘は李謐の方が自分より學(xué)問が進(jìn)んだと考え、自ら進(jìn)んで李謐の弟子になった。この時、同門のものは筍況のこの言葉を引用して、李謐の優(yōu)秀さと孔潘の実直さを褒め稱えている。
近年の師と仰がれる人々で、筍況のこの言葉を真に理解している人は少ない。弟子はいつまで経っても弟子であり、一人前或いは自分と同等と認(rèn)めても、その弟子の「弟子」になることが出來ない。
將に「學(xué)は、もって已むべからず」である。この「青は藍(lán)より出て藍(lán)より青し」に觸れたら、この事も思い出して欲しい。
「過ちては、則ち改めるに憚ること勿れ」