日本人の自然観(四)

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このような自然の多様性と活動性とは、そうした環(huán)境の中に保育されて來た國民にいかなる影響を及ぼすであろうか、ということはあまり多言を費やさずとも明白なことであろう。複雑な環(huán)境の変化に適応せんとする不斷の意識的ないし無意識的努力はその環(huán)境に対する観察の精微と敏捷(びんしょう)を招致し養(yǎng)成するわけである。同時にまた自然の驚異の奧行きと神秘の深さに対する感覚を助長する結(jié)果にもなるはずである。自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として學び、自然自身の太古以來の経験をわが物として自然の環(huán)境に適応するように務(wù)めるであろう。前にも述べたとおり大自然は慈母であると同時に厳父である。厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等にわれわれの生活の安寧を保証するために必要なことである。
    人間の力で自然を克服せんとする努力が西洋における科學の発達を促した。何ゆえに東洋の文化國日本にどうしてそれと同じような科學が同じ歩調(diào)で進歩しなかったかという問題はなかなか複雑な問題であるが、その差別の原因をなす多様な因子の中の少なくも一つとしては、上記のごとき日本の自然の特異性が関與しているのではないかと想像される。すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる、という一方ではまた、厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて、その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結(jié)果として、自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を斷念し、自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて來た。この民族的な知恵もたしかに一種のワイスハイトであり學問である。しかし、分析的な科學とは類型を異にした學問である。
    たとえば、昔の日本人が集落を作り架構(gòu)を施すにはまず地を相することを知っていた。西歐科學を輸入した現(xiàn)代日本人は西洋と日本とで自然の環(huán)境に著しい相違のあることを無視し、従って伝來の相地の學を蔑視(べっし)して建てるべからざる所に人工を建設(shè)した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭(むち)のひと打ちで、その建設(shè)物が実にいくじもなく壊滅する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁(ひんぱん)に起こるように思われる。昭和九年十年の風水害史だけでもこれを?qū)g証して余りがある。
    西歐諸國を歩いたときに自分の感じたことの一つは、これらの國で自然の慈母の慈愛が案外に欠乏していることであった。洪積期(こうせきき)の遺物と見られる泥炭地(でいたんち)や砂地や、さもなければはげた巖山の多いのに驚いたことであったが、また一方で自然の厳父の威厳の物足りなさも感ぜられた。地震も臺風も知らない國がたくさんあった。自然を恐れることなしに自然を克服しようとする科學の発達には真に格好の地盤であろうと思われたのである。
    こうして発達した西歐科學の成果を、なんの骨折りもなくそっくり継承した日本人が、もしも日本の自然の特異性を深く認識し自覚した上でこの利器を適當に利用することを?qū)Wび、そうしてたださえ豊富な天恵をいっそう有利に享有すると同時にわが國に特異な天変地異の災(zāi)禍を軽減し回避するように努力すれば、おそらく世界じゅうでわが國ほど都合よくできている國はまれであろうと思われるのである。しかるに現(xiàn)代の日本ではただ天恵の享楽にのみ夢中になって天災(zāi)の回避のほうを全然忘れているように見えるのはまことに惜しむべきことと思われる。
    以上きわめて概括的に日本の自然の特異性について考察したつもりである。それで次にかくのごとき自然にいだかれた日本人がその環(huán)境に応じていかなる生活様式をとって來たかということを考えてみたいと思う。
    日本人の日常生活
    まず衣食住の中でもいちばんだいじな食物のことから考えてみよう。
    太古の先住民族や渡來民族は多く魚貝や鳥獣の肉を常食としていたかもしれない。いつの時代にか南洋またはシナからいろいろな農(nóng)法が伝わり、一方ではまた肉食を忌む仏教の伝播(でんぱ)とともに菜食が発達し、いつとなく米穀が主食物となったのではないかというのはだれにも想像されることである。しかしそうした農(nóng)業(yè)がわが國の風土にそのまま適していたか、少なくも次第に順応しつつ発達しうるものであったということがさらに根本的な理由であることを忘れてはならない。
    「さかな」の「な」は菜でもあり魚でもある。副食物は主として魚貝と野菜である。これはこの二つのものの種類と數(shù)量の豊富なことから來る自然の結(jié)果であろう。またそれらのものの比較的新鮮なものが手に入りやすいこと、あるいは手に入りやすいような所に主要な人口が分布されたこと、その事実の結(jié)果が食物の調(diào)理法に特殊な影響を及ぼしているかと思われる。よけいな調(diào)味で本來の味を掩蔽(えんぺい)するような無用の手數(shù)をかけないで、その新鮮な材料本來の美味を、それに含まれた貴重なビタミンとともに、そこなわれない自然のままで摂取するほうがいちばん快適有効であることを知っているのである。
    中央アジアの旅行中シナの大官からごちそうになったある西洋人の紀行中の記事に、數(shù)十種を算する獻立のどれもこれもみんな一様な黴(かび)のにおいで統(tǒng)括されていた、といったようなことを書いている。
    もう一つ日本人の常食に現(xiàn)われた特性と思われるのは、食物の季節(jié)性という點に関してであろう。俳諧歳時記(はいかいさいじき)を繰ってみてもわかるように季節(jié)に応ずる食用の野菜魚貝の年週期的循環(huán)がそれだけでも日本人の日常生活を多彩にしている。年じゅう同じように貯蔵した馬鈴薯(ばれいしょ)や玉ねぎをかじり、干物塩物や、季節(jié)にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人やシナ人、あるいはほとんど年じゅう同じような果実を食っている熱帯の住民と、「はしり」を喜び「しゅん」を貴(たっと)ぶ日本人とはこうした點でもかなりちがった日常生活の內(nèi)容をもっている。このちがいは決してそれだけでは済まない種類のちがいである。
    衣服についてもいろいろなことが考えられる。菜食が発達したとほぼ同様な理由から植物性の麻布綿布が主要な資料になり、毛皮や毛織りが輸入品になった。綿布麻布が日本の気候に適していることもやはり事実であろうと思われる。養(yǎng)蠶が輸入されそれがちょうどよく風土に適したために、後には絹布が輸出品になったのである。
    衣服の様式は少なからずシナの影響を受けながらもやはり固有の気候風土とそれに準ずる生活様式に支配されて固有の発達と分化を遂げて來た。近代では洋服が普及されたが、固有な和服が跡を絶つ日はちょっと考えられない。たとえば冬濕夏乾の西歐に発達した洋服が、反対に冬乾夏濕の日本の気候においても和服に比べて、その生理的効果がすぐれているかどうかは科學的研究を経た上でなければにわかに決定することができない。しかし、日本へ來ている西洋人が夏は好んで浴衣(ゆかた)を著たり、ワイシャツ一つで軽井沢(かるいざわ)の町を歩いたりすることだけを考えても、和服が決して不合理なものばかりでないということの証拠がほかにもいろいろ捜せば見つかりそうに思われる。しかしおかしい事には日本の學者でまだ日本服の気候?qū)W的物理的生理的の意義を充分詳細に研究し盡くした人のあることを聞かないようである。これは私の寡聞のせいばかりではないらしい。そういう事を研究することを喜ばないような日本現(xiàn)時の不思議な學風がそういう研究の出現(xiàn)を阻止しているのではないかと疑われる。
    余談ではあるが、先日田舎(いなか)で農(nóng)夫の著ている簔(みの)を見て、その機構(gòu)の巧妙と性能の優(yōu)秀なことに今さらに感心した。これも元はシナあたりから伝來したものかもしれないが、日本の風土に適合したために土著したものであろう??諝荬瘟魍à瑜皮筏庥辘浃ⅳ椁筏吻秩毪蚍坤挨趣いcでは、バーベリーのレーンコートよりもずっとすぐれているのではないかという気がする。あれも天然の設(shè)計に成る鳥獣の羽毛の機構(gòu)を?qū)Wんで得たインジェニュイティーであろうと想像される。それが今日ではほとんど博物館的存在になってしまった。
    日本の家屋が木造を主として発達した第一の理由はもちろん至るところに繁茂した良材の得やすいためであろう、そうして頻繁(ひんぱん)な地震や臺風の襲來に耐えるために平家造りか、せいぜい二階建てが限度となったものであろう。五重の塔のごときは特例であるが、あれの建築に示された古人の工學的才能は現(xiàn)代學者の驚嘆するところである。
    床下の通風をよくして土臺の腐朽を防ぐのは溫濕の気候に絶対必要で、これを無視して造った文化住宅は數(shù)年で根太(ねだ)が腐るのに、田舎(いなか)の舊家には百年の家が平気で立っている。ひさしと縁側(cè)を設(shè)けて日射と雨雪を遠ざけたりしているのでも日本の気候に適応した巧妙な設(shè)計である。西洋人は東洋暖地へ來てやっとバンガローのベランダ造りを思いついたようである。
    障子というものがまた存外巧妙な発明である。光線に対しては乳色ガラスのランプシェードのように光を弱めずに拡散する効果があり、風に対してもその力を弱めてしかも適宜な空気の流通を調(diào)節(jié)する効果をもっている。
    日本の家は南洋風で夏向きにできているから日本人は南洋から來たのだという説を立てた西洋人がいた。原始的にはあるいは南洋に系統(tǒng)を引いていないとも限らないであろうが、しかしたとえそうであっても現(xiàn)時の日本家屋は日本の気候に適合するように進化し、また日本の各地方でそれぞれの気候的特徴に応じて多少ずつは分化した発達をも遂げて來ている。屋根の勾配(こうばい)やひさしの深さなどでも南國と北國とではいくらかそれぞれに固有な特徴が見られるように思われる。
    近來は鉄筋コンクリートの住宅も次第にふえるようである。これは地震や臺風や火事に対しては申しぶんのない抵抗力をもっているのであるが、しかし一つ困ることはあの厚い壁が熱の伝導をおそくするためにだいたいにおいて夏の初半は屋內(nèi)の濕度が高く冬の半分は乾燥がはげしいという結(jié)果になる。西歐諸國のように夏が乾期で冬が濕期に相當する地方だとちょうどいいわけであるが、日本はちょうど反対で夏はたださえ多い濕気が室內(nèi)に入り込んで冷卻し相対濕度を高めたがっているのであるから、屋內(nèi)の壁の冷え方がひどければひどいほど飽和がひどくなってコンクリート壁は一種の蒸留器の役目をつとめるようなことになりやすい。冬はまさにその反対に屋內(nèi)の濕気は外へ根こそぎ絞り取られる勘定である。
    日本では、土壁の外側(cè)に羽目板を張ったくらいが防寒防暑と濕度調(diào)節(jié)とを両立させるという點から見てもほぼ適度な妥協(xié)點をねらったものではないかという気がする。
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