短歌俳諧(はいかい)に現(xiàn)われる自然の風物とそれに付隨する日本人の感覚との最も手近な目録索引としては俳諧歳時記(はいかいさいじき)がある。俳句の季題と稱するものは俳諧の父なる連歌を通して歴史的にその來歴を追究して行くと枕草子や源氏物語から萬葉の昔にまでもさかのぼることができるものが多數(shù)にあるようである。私のいわゆる全機的世界の諸斷面の具象性を決定するに必要な座標としての時の指定と同時にまた空間の標示として役立つものがこのいわゆる季題であると思われる。もちろん短歌の中には無季題のものも決して少なくはないのであるが、一首一首として見ないで、一人の作者の制作全體を通じて一つの連作として見るときには、やはり日本人特有の季題感が至るところに橫溢(おういつ)していることが認められるであろうと思われる。
枕詞(まくらことば)と稱する不思議な日本固有の存在についてはまだ徹底的な説明がついていないようである。この不思議を説明するかぎの一つが上述の所説からいくらか暗示されるような気がする。統(tǒng)計を取ってみたわけではないが、試みに枕詞の語?。à搐ぃ─螯c検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。それらが表面上は単なる音韻的な連鎖として用いられ、悪く言えば単なる言葉の遊戯であるかのごとき観を呈しているにかかわらず、実際の効果においては枕詞の役目が決して地口やパンのそれでないことは多くの日本人の疑わないところである。しかしそれが何ゆえにそうであるかの説明は容易でない。私のひそかに考えているところでは、枕詞がよび起こす連想の世界があらかじめ一つの舞臺裝置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適當な環(huán)境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すればある特殊な雰囲気(ふんいき)をよび出すための呪文(じゅもん)のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特異な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を論理的科學的な立場から見ることのみを知ってそれ以外の見方をすることの可能性に心づかない民族にとっては、それは全くのナンセンスであり悪趣味でさえもありうるのである。
こんなことを考えただけでも、和歌を外國語に翻訳しただけで外國人に味わわせようという試みがいかに望み少ないものであるかを了解することができるであろう。また季題なしの新俳句を製造しようとするような運動がいかに人工的なものであるかを悟ることができるであろうと思われる。
日本人の特異な自然観の特異性をある一方面に分化させ、その方向に異常な発達を遂げさせたものは一般民衆(zhòng)の間における俳諧発句(はいかいほっく)の流行であったと思われる。かえってずっと古い昔には民衆(zhòng)的であったかと思われる短歌が中葉から次第に宮廷人の知的遊戯の具となりあるいは僧侶(そうりょ)の遁世哲學(とんせいてつがく)を諷詠(ふうえい)するに格好な詩形を提供していたりしたのが、後に連歌という形式から一転して次第にそうした階級的の束縛を脫しいわゆる俳諧から発句に進化したために著しくその活躍する世界を拡張して詩材の摂取範囲を豊富にした。それと同時にまた古來の詩人によって養(yǎng)われ造り上げられて來た日本固有の自然観を広く一般民衆(zhòng)の間に伝播(でんぱ)するという効果を生じたであろうと想像される。俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人殘らずみんな詩人であるという。これは単に俳句の詩形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう詩形を可能ならしめる重大な原理がまさに日本人の自然観の特異性の中に存し、その上に立腳しているという根本的な事実を見のがしてはならない。そういう特異な自然観が國民全體の間にしみ渡っているという必須條件(ひっすじょうけん)が立派に満足されているという事実を忘卻してはならないのである。
短歌や俳句が使い古したものであるからというだけの単純な理由からその詩形の破棄を企て、內容の根本的革新を夢みるのもあえてとがむべき事ではないとしても、その企図に著手する前に私がここでいわゆる全機的日本の解剖學と生理學を充分に追究し認識した上で仕事に取り掛からないと、せっかくな企図があるいはおそらく徒労に終わるのではないかと憂慮されるのである。
美術工蕓に反映した日本人の自然観の影響もまた隨所に求めることができるであろう。
日本の絵畫には概括的に見て、仏教的漢詩的な輸入要素のほかに和歌的なものと俳句的なものとの三角形的な対立が認められ、その三角で與えられるような一種の三角座標をもってあらゆる畫家の位置を決定することができそうに思われる。たとえば狩野(かのう)派;土佐(とさ)派;四條(しじょう)派をそれぞれこの三角の三つの頂點に近い所に配置して見ることもできはしないか。
それはいずれにしてもこれらの諸派の絵を通じて言われることは、日本人が輸入しまた創(chuàng)造しつつ発達させた絵畫は、その対象が人間であっても自然であっても、それは決して畫家の主観と対立した客観のそれではなく両者の結合し交錯した全機的な世界自身の表現(xiàn)であるということである。西洋の畫家が比較的近年になって、むしろこうした絵畫に絵畫本來の使命があるということを発見するようになったのは、従來の客観的分析的絵畫が科學的複製技術の進歩に脅かされて窮地に立った際、偶然日本の浮世絵などから活路を暗示されたためだという説もあるようである。
次に音楽はどうであるか。日本の民衆(zhòng)音楽中でも、歌詞を主としない、純粋な器楽に近いものとしての三曲のごときも、その表現(xiàn)せんとするものがしばしば自然界の音であり、また楽器の妙音を形容するために自然の物音がしばしば比較に用いられる。日本人は音を通じても自然と同化することを意図としているようにも思われる。
結語
以上の所説を要約すると、日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを學んで來た、この特別な対自然の態(tài)度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした、というのである。
この影響は長所をもつと同時にその短所をももっている。それは自然科學の発達に不利であった。また蕓術の使命の幅員を制限したというとがめを受けなければならないかもしれない。しかし、それはやむを得ないことであった。ちょうど日本の風土と生物界とがわれわれの力で自由にならないと同様にどうにもならない自然の現(xiàn)象であったのである。
地理的條件のために長い間鎖國狀態(tài)を保って來た日本がようやく世界の他の部分と接觸するようになったのは一つには科學の進歩によって交通機関が次第に発達したおかげであるとも見られる。実際交通機関の発達は地球の大いさを縮め、地理的関係に深甚(しんじん)な変化を與えた。ある遠い所がある近い所よりも交通的には近くなったりして、言わば空間がねじれゆがんで來た。距離の尺度と時間の尺度もいろいろに食いちがって來た。そうして人は千里眼順風耳を獲得し、かつて夢みていた鳥の翼を手に入れた。このように、自然も変わり人間も昔の人間とちがったものになったとすると、問題の日本人の自然観にもそれに相當してなんらかの変化をきたさなければならないように思われる。そうして、この新しい日本人が新しい自然に順応するまでにはこれから先相當に長い年月の修練を必要とするであろうと思われる。多くの失敗と過誤の苦(にが)い経験を重ねなければなるまいと思われる?,F(xiàn)にそうした経験を今日われわれは至るところに味わいつつあるのである。
そうはいうものの、日本人はやはり日本人であり日本の自然はほとんど昔のままの日本の自然である。科學の力をもってしても、日本人の人種的特質を改造し、日本全體の風土を自由に支配することは不可能である。それにもかかわらずこのきわめて見やすい道理がしばしば忘れられる。西洋人の衣食住を模し、西洋人の思想を継承しただけで、日本人の解剖學的特異性が一変し、日本の気候風土までも入れ代わりでもするように思うのは粗忽(そこつ)である。
余談ではあるが、皮膚の色だけで、人種を區(qū)別するのもずいぶん無意味に近い分類である。人と自然とを合して一つの有機體とする見方からすればシナ人と日本人とは決してあまり近い人種ではないような気もする。また東洋人とひと口に言ってしまうのもずいぶん空虛な言葉である。東洋と稱する広い地域の中で日本の風土とその國民とはやはり周囲と全くかけ離れた「島」を作っているのである。
私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環(huán)境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄與であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである。
(追記) 以上執(zhí)筆中雑誌「文學」の八月特集號「自然の文學」が刊行された。その中には、日本の文學と日本の自然との関係が各方面の諸家によって詳細に論述されている。読者はそれらの有益な所説を參照されたい。またその巻頭に掲載された和辻哲郎(わつじてつろう)氏の「風土の現(xiàn)象」と題する所説と、それを序編とする同氏の近刊著書「風土」における最も獨創(chuàng)的な全機的自然観を參照されたい。自分の上述の所説の中には和辻氏の従來すでに発表された自然と人間との関係についての多くの所論に影響されたと思われる點が少なくない。また友人小宮豊?。à长撙浃趣瑜郡话脖赌艹桑àⅳ伽瑜筏筏玻﹣I氏の著書から暗示を受けた點も多いように思われるのである。
なお拙著「蒸発皿(じょうはつざら)」に収められた俳諧(はいかい)や連句に関する所説や、「螢光板(けいこうばん)」の中の天災に関する諸編をも參照さるれば大幸である。
(昭和十年十月、東洋思潮)
枕詞(まくらことば)と稱する不思議な日本固有の存在についてはまだ徹底的な説明がついていないようである。この不思議を説明するかぎの一つが上述の所説からいくらか暗示されるような気がする。統(tǒng)計を取ってみたわけではないが、試みに枕詞の語?。à搐ぃ─螯c検してみると、それ自身が天然の景物を意味するような言葉が非常に多く、中にはいわゆる季題となるものも決して少なくない。それらが表面上は単なる音韻的な連鎖として用いられ、悪く言えば単なる言葉の遊戯であるかのごとき観を呈しているにかかわらず、実際の効果においては枕詞の役目が決して地口やパンのそれでないことは多くの日本人の疑わないところである。しかしそれが何ゆえにそうであるかの説明は容易でない。私のひそかに考えているところでは、枕詞がよび起こす連想の世界があらかじめ一つの舞臺裝置を展開してやがてその前に演出さるべき主観の活躍に適當な環(huán)境を組み立てるという役目をするのではないかと思われる。換言すればある特殊な雰囲気(ふんいき)をよび出すための呪文(じゅもん)のような効果を示すのではないかと思われる。しかし、この呪文は日本人のごとき特異な自然観の所有者に対してのみ有効な呪文である。自然を論理的科學的な立場から見ることのみを知ってそれ以外の見方をすることの可能性に心づかない民族にとっては、それは全くのナンセンスであり悪趣味でさえもありうるのである。
こんなことを考えただけでも、和歌を外國語に翻訳しただけで外國人に味わわせようという試みがいかに望み少ないものであるかを了解することができるであろう。また季題なしの新俳句を製造しようとするような運動がいかに人工的なものであるかを悟ることができるであろうと思われる。
日本人の特異な自然観の特異性をある一方面に分化させ、その方向に異常な発達を遂げさせたものは一般民衆(zhòng)の間における俳諧発句(はいかいほっく)の流行であったと思われる。かえってずっと古い昔には民衆(zhòng)的であったかと思われる短歌が中葉から次第に宮廷人の知的遊戯の具となりあるいは僧侶(そうりょ)の遁世哲學(とんせいてつがく)を諷詠(ふうえい)するに格好な詩形を提供していたりしたのが、後に連歌という形式から一転して次第にそうした階級的の束縛を脫しいわゆる俳諧から発句に進化したために著しくその活躍する世界を拡張して詩材の摂取範囲を豊富にした。それと同時にまた古來の詩人によって養(yǎng)われ造り上げられて來た日本固有の自然観を広く一般民衆(zhòng)の間に伝播(でんぱ)するという効果を生じたであろうと想像される。俳句を研究してある程度まで理解しているあるフランス人に言わせると日本人は一人殘らずみんな詩人であるという。これは単に俳句の詩形が短くてだれでもまねやすいためであり、単にそれだけであると思ってはならない。そういう詩形を可能ならしめる重大な原理がまさに日本人の自然観の特異性の中に存し、その上に立腳しているという根本的な事実を見のがしてはならない。そういう特異な自然観が國民全體の間にしみ渡っているという必須條件(ひっすじょうけん)が立派に満足されているという事実を忘卻してはならないのである。
短歌や俳句が使い古したものであるからというだけの単純な理由からその詩形の破棄を企て、內容の根本的革新を夢みるのもあえてとがむべき事ではないとしても、その企図に著手する前に私がここでいわゆる全機的日本の解剖學と生理學を充分に追究し認識した上で仕事に取り掛からないと、せっかくな企図があるいはおそらく徒労に終わるのではないかと憂慮されるのである。
美術工蕓に反映した日本人の自然観の影響もまた隨所に求めることができるであろう。
日本の絵畫には概括的に見て、仏教的漢詩的な輸入要素のほかに和歌的なものと俳句的なものとの三角形的な対立が認められ、その三角で與えられるような一種の三角座標をもってあらゆる畫家の位置を決定することができそうに思われる。たとえば狩野(かのう)派;土佐(とさ)派;四條(しじょう)派をそれぞれこの三角の三つの頂點に近い所に配置して見ることもできはしないか。
それはいずれにしてもこれらの諸派の絵を通じて言われることは、日本人が輸入しまた創(chuàng)造しつつ発達させた絵畫は、その対象が人間であっても自然であっても、それは決して畫家の主観と対立した客観のそれではなく両者の結合し交錯した全機的な世界自身の表現(xiàn)であるということである。西洋の畫家が比較的近年になって、むしろこうした絵畫に絵畫本來の使命があるということを発見するようになったのは、従來の客観的分析的絵畫が科學的複製技術の進歩に脅かされて窮地に立った際、偶然日本の浮世絵などから活路を暗示されたためだという説もあるようである。
次に音楽はどうであるか。日本の民衆(zhòng)音楽中でも、歌詞を主としない、純粋な器楽に近いものとしての三曲のごときも、その表現(xiàn)せんとするものがしばしば自然界の音であり、また楽器の妙音を形容するために自然の物音がしばしば比較に用いられる。日本人は音を通じても自然と同化することを意図としているようにも思われる。
結語
以上の所説を要約すると、日本の自然界が空間的にも時間的にも複雑多様であり、それが住民に無限の恩恵を授けると同時にまた不可抗な威力をもって彼らを支配する、その結果として彼らはこの自然に服従することによってその恩恵を充分に享楽することを學んで來た、この特別な対自然の態(tài)度が日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした、というのである。
この影響は長所をもつと同時にその短所をももっている。それは自然科學の発達に不利であった。また蕓術の使命の幅員を制限したというとがめを受けなければならないかもしれない。しかし、それはやむを得ないことであった。ちょうど日本の風土と生物界とがわれわれの力で自由にならないと同様にどうにもならない自然の現(xiàn)象であったのである。
地理的條件のために長い間鎖國狀態(tài)を保って來た日本がようやく世界の他の部分と接觸するようになったのは一つには科學の進歩によって交通機関が次第に発達したおかげであるとも見られる。実際交通機関の発達は地球の大いさを縮め、地理的関係に深甚(しんじん)な変化を與えた。ある遠い所がある近い所よりも交通的には近くなったりして、言わば空間がねじれゆがんで來た。距離の尺度と時間の尺度もいろいろに食いちがって來た。そうして人は千里眼順風耳を獲得し、かつて夢みていた鳥の翼を手に入れた。このように、自然も変わり人間も昔の人間とちがったものになったとすると、問題の日本人の自然観にもそれに相當してなんらかの変化をきたさなければならないように思われる。そうして、この新しい日本人が新しい自然に順応するまでにはこれから先相當に長い年月の修練を必要とするであろうと思われる。多くの失敗と過誤の苦(にが)い経験を重ねなければなるまいと思われる?,F(xiàn)にそうした経験を今日われわれは至るところに味わいつつあるのである。
そうはいうものの、日本人はやはり日本人であり日本の自然はほとんど昔のままの日本の自然である。科學の力をもってしても、日本人の人種的特質を改造し、日本全體の風土を自由に支配することは不可能である。それにもかかわらずこのきわめて見やすい道理がしばしば忘れられる。西洋人の衣食住を模し、西洋人の思想を継承しただけで、日本人の解剖學的特異性が一変し、日本の気候風土までも入れ代わりでもするように思うのは粗忽(そこつ)である。
余談ではあるが、皮膚の色だけで、人種を區(qū)別するのもずいぶん無意味に近い分類である。人と自然とを合して一つの有機體とする見方からすればシナ人と日本人とは決してあまり近い人種ではないような気もする。また東洋人とひと口に言ってしまうのもずいぶん空虛な言葉である。東洋と稱する広い地域の中で日本の風土とその國民とはやはり周囲と全くかけ離れた「島」を作っているのである。
私は、日本のあらゆる特異性を認識してそれを生かしつつ周囲の環(huán)境に適応させることが日本人の使命であり存在理由でありまた世界人類の健全な進歩への寄與であろうと思うものである。世界から桜の花が消えてしまえば世界はやはりそれだけさびしくなるのである。
(追記) 以上執(zhí)筆中雑誌「文學」の八月特集號「自然の文學」が刊行された。その中には、日本の文學と日本の自然との関係が各方面の諸家によって詳細に論述されている。読者はそれらの有益な所説を參照されたい。またその巻頭に掲載された和辻哲郎(わつじてつろう)氏の「風土の現(xiàn)象」と題する所説と、それを序編とする同氏の近刊著書「風土」における最も獨創(chuàng)的な全機的自然観を參照されたい。自分の上述の所説の中には和辻氏の従來すでに発表された自然と人間との関係についての多くの所論に影響されたと思われる點が少なくない。また友人小宮豊?。à长撙浃趣瑜郡话脖赌艹桑àⅳ伽瑜筏筏玻﹣I氏の著書から暗示を受けた點も多いように思われるのである。
なお拙著「蒸発皿(じょうはつざら)」に収められた俳諧(はいかい)や連句に関する所説や、「螢光板(けいこうばん)」の中の天災に関する諸編をも參照さるれば大幸である。
(昭和十年十月、東洋思潮)

