李 金鑫 女 河南省開封市 慶應義塾大學
剛滿22歲的李金鑫感慨地回顧來日的三年:“人生真有意思。昨天是我的生日,采訪結束后,我得馬上趕到新宿和朋友吃飯祝賀?!彼曇羲实卣f。
三年前,金鑫還根本沒想到要來日本留學。小時侯,母親總說:“長大了,你要到外國去學習知識,開闊眼界啊?!苯瘀沃幌氘斠幻t(yī)生,她報名叁加考試,卻沒被報考的大學錄取?!凹热蝗绱耍腿馍洗髮W吧。”當初,金鑫并沒想來日本,她查閱了法國,德國,新加坡等幾個國家的大學招生情況。暑假來了,金鑫的一個朋友告訴她:“我要到日本留學去。”金鑫想,既然她們去日本,那我也去日本算了。就這樣金鑫才動了來日本的念頭。她和小學時的三名學一起于2001年4月登上了飛往東瀛的飛機,憧憬起新的人生。
在王立學院刻苦學習
金鑫來日之前,單身赴北京在人大的日語班學習了半年。畢竟是初學,沒記住什么東西。2001年4月來日后,通過朋友親戚的介紹進了本鄉(xiāng)教育學院。過了一段時間,金鑫發(fā)覺在這里學習很難考上大學,于是她開始尋找其他學校并于第二年轉學到東京中央日本語學院。到了東京中央日本語學院后,金鑫又發(fā)現(xiàn)在這里雖然能學到“日常會話”,“國際交流”等知識,可要憑這點實力恐怕很難考上大學。她看報紙,查網(wǎng),得知在鷲宮有一所培養(yǎng)養(yǎng)學生考入大學的日本語學校,叫王立學院,于是金鑫毅然決然地轉到王立學院上學。
王立學院每周只有二天上課,課程安排得很緊湊,從下午2點開始一直上到晚上10點,作業(yè)也留得很多。金鑫從5月開始在王立學院上課,直到12月叁加慶應大學考試,每天學習都很緊張?;仡櫘敃r刻苦學習的情景,她說:“長這么大,我也沒這么玩命地學習過?!薄〗瘀紊细咧袝r學的是理科,但在日本卻學習了兩年文科課程,盡管她說“這很不像自己”,但終還是改成了文科。金鑫之所以改學經(jīng)濟。經(jīng)營專業(yè),是因為王立學院有一位老師是慶應大學的畢業(yè)生。他向金鑫推薦考慶應義塾大學,上智大學,早稻田大學,一橋大學等大學
金鑫來日本的頭三個月往住日本語學校的宿舍里,后來在她父親朋友的介紹下到新小巖一個日本人家庭寄舍。本來金鑫只想托人幫忙介紹個住處,誰知那家人家說: “你就住在我家吧”,金鑫感激地接受了邀請。每天她用日語進行溝通,對提高日語會話能力是一個大好的機會。寄宿人家還和金鑫商量報考大學的事,使在日本舉目無親的金鑫就像找到了自己的家一樣。
來日翌年11月,金鑫叁加了留學考試和TOEFL考試,科目有日語,數(shù)學,綜合科目(地理,歷史,政治)。12月迎戰(zhàn)慶應面試,不久接到了合格通知書。金鑫回想起刻苦學習的這一年時感慨良多:“去年一年我都在拼命地學習,連自己都覺得自己了不起?!?BR> 目標明確非常重要
現(xiàn)為慶應大學一年級學生的金鑫回顧度過的幾年時光,她認為正是因為自己樹立起目標并為之備斗,才開拓了自己的人生。從和朋友湊熱鬧來日留學,在日本人家里寄宿,到一心考上大學頻頻轉校,拼死地學習……等等仿佛恍如昨日。2003年春,金鑫回開封市探親,媽媽高興得掉下了眼淚。金鑫自豪地對母親說: “媽媽,您的決定非常正確?!蹦赣H曾不止地鼓勵她說:“只要你努力去做自己想要做的事就好,即使沒考上大學也沒關系……”
金鑫說,他來日本后一直確信——“別人能做到的事,我通過努力也一定能夠做到?!薄傲魧W不是一件輕松事兒,可你輕松對待,它就會變得輕松。”“沒有目標就沒有成功。”現(xiàn)在金鑫和日本學生一起上課聽講,有時感到吃力,“雖然能聽懂卻來不及記筆記”。但她決不氣餒,力爭拿滿44個學分。為了愉快地度過大學生活,金鑫叁加了大學的攝影俱樂部和國際交流小組,在俱樂部里她結識了許多日本朋友,金鑫再感慨:“人生真是其樂無窮?!?BR> 參考
http://www.keio.ac.jp/index-jp.html
(<<出國與就業(yè)>> 04年2月登載
李 金キン(慶応義塾大學)
「人生はおもしろい」22歳になったばかりの李金キンはこの3年間を振り返りながら語った?!缸蛉照Q生日だったの、このインタビューが終わったら新宿で友達と食事をするの。祝ってくれるのよ!」と明るい聲で話してくれた。
3年前は自分が日本に留學するとは思ってもみなかった。母はキンキンが子供のころから「いつか外國に行って、知識と體験を積んだほうがいい」と言っていたが、キンキンは醫(yī)者を目指して大學受験した。自分の希望する大學に入れなかったキンキンは浪人狀態(tài)になってから「外國の大學に行こうかな」と考えフランス、ドイツ、シンガポールなどの大學入學について調べていた。その時點では日本留學はまったく考えていない。夏休み、友達が「日本に留學する」という話をした?!赣堰_が行くなら自分も行ってみようかな」と考えたのが始めて日本を意識した時だった。小學校時代からのクラスメート3人で「新しい人生を頑張ろう」と夢を語り合いながら2001年4月、同じ飛行機で日本に來た。
キンキンは日本に來る前に半年間、北京で一人住まいして人民大學の日本語コースで勉強した。初めて勉強した日本語でありほとんど力がつかなかった。 2001年4月來日して友達の親戚が紹介してくれた本郷教育學院に入學する。しかし、そこで勉強したのでは大學入學の実力をつけるには難しいと感じたキンキンは他の學校を探し、2年目は東京中央日本語學院に移った。しかしそこも、「日常會話」「國際交流」などの知識、體験は身につくが、キンキンが目的とする大學入學の勉強には不十分に感じた。新聞、インターネットなどで調べた結果、鷺宮に王立學院という大學受験を目的にした日本語學校があるのを知ってそこにも入學した。
王立學院は週2回しか授業(yè)がないが、午後2時から10時までみっちり授業(yè)があり宿題も多かった。5月に入學して12月の慶応義塾大學の試験まですごくきつい勉強の毎日だった?!袱ⅳ螭胜嗣銖姢筏郡长趣辖瘠蓼扦胜盲俊工去螗螭险瘠攴丹?。キンキンは、高校時代に理系コースで勉強していたが、日本での2年間の勉強生活で「自分には似合わない」と思い文系コースに変えた。経済?経営系にしたのは王立學院の先生が慶応経済學部大學院卒業(yè)だからだった。その先生はキンキンに慶応義塾大學、上智大學、早稲田大學、一橋大學などの受験を薦めてくれた。
來日して初の3カ月は日本語學校の寮に入った。その後、父の友達の紹介で新小巖にホームステイした。アパートを紹介してもらう予定が「家に住んでもいいですよ」という申し出を受け、キンキンはありがたく受けいれた。その家では日本語で會話をして、キンキンにとっては會話力上達の絶好の機會になった。大學受験のことでも相談に乗ってくれて、日本に身寄りのいないキンキンにとって頼りになる存在だ。
來日して2年目の11月、留學試験とTOEFL試験を受けた。日本語、數(shù)學、総合科目(地理、歴史、政治の含めた科目)だ。12月には慶応義塾大學面接を受け、その後合格の通知が屆いた。この1年間はハードな勉強の連続で「自分でも偉いと思うくらい昨年は頑張った」とキンキンはつい近のことを思い出す。
振り返ると、今、慶応義塾大學の1年生だが、目標を持って挑戦しながら自分の人生を切りひらいてきた數(shù)年だった。友達の日本留學に便乗して來日したキンキン、偶然であった日本の家庭でのホームステイ、「大學受験」に目標をあてた日本語學校探し、死ぬほど頑張った受験勉強???など。2003年春、開封市の実家に帰ったとき、母が泣いて喜んでくれた。キンキンは母に「お母さんの決斷は間違っていなかったですよ」と胸を張って言った。母は幾度となく「元気にやりたいことをやればいい。名門大學に入れなくてもいいから???」と勵ましてくれていたからだ。
キンキンは來日して確信したことがある。それは「他の人ができることは自分も頑張ればできる」「留學はそんなに楽しくない。しかし、楽しいと思えば楽しくなる」「目標をたてないと成功しない。また目標は変更することも必要だ」などだ。今、日本人學生と一緒に授業(yè)を受けているが講義の聴き取りに苦しんでいる?!袱铯毪堡丧惟`トを取れない」。しかし、44単位の授業(yè)を一生懸命受けている。キンキンは大學生活をエンジョイするために寫真部とコスミック(國際交流サークル)に入った。そこでは日本人の友達がたくさんできる。キンキンは改めて思う。「人生はおもしろい」。
李 金キン(ひとやねの下に金が三つ)、女、22歳、原籍河南省開封市。河南開封高級中學卒業(yè).2002年本郷教育學院、2003年東京中央日本語學院、王立學院を修了し、2003年4月慶応義塾大學経済部に入學、現(xiàn)在1年生。
剛滿22歲的李金鑫感慨地回顧來日的三年:“人生真有意思。昨天是我的生日,采訪結束后,我得馬上趕到新宿和朋友吃飯祝賀?!彼曇羲实卣f。
三年前,金鑫還根本沒想到要來日本留學。小時侯,母親總說:“長大了,你要到外國去學習知識,開闊眼界啊?!苯瘀沃幌氘斠幻t(yī)生,她報名叁加考試,卻沒被報考的大學錄取?!凹热蝗绱耍腿馍洗髮W吧。”當初,金鑫并沒想來日本,她查閱了法國,德國,新加坡等幾個國家的大學招生情況。暑假來了,金鑫的一個朋友告訴她:“我要到日本留學去。”金鑫想,既然她們去日本,那我也去日本算了。就這樣金鑫才動了來日本的念頭。她和小學時的三名學一起于2001年4月登上了飛往東瀛的飛機,憧憬起新的人生。
在王立學院刻苦學習
金鑫來日之前,單身赴北京在人大的日語班學習了半年。畢竟是初學,沒記住什么東西。2001年4月來日后,通過朋友親戚的介紹進了本鄉(xiāng)教育學院。過了一段時間,金鑫發(fā)覺在這里學習很難考上大學,于是她開始尋找其他學校并于第二年轉學到東京中央日本語學院。到了東京中央日本語學院后,金鑫又發(fā)現(xiàn)在這里雖然能學到“日常會話”,“國際交流”等知識,可要憑這點實力恐怕很難考上大學。她看報紙,查網(wǎng),得知在鷲宮有一所培養(yǎng)養(yǎng)學生考入大學的日本語學校,叫王立學院,于是金鑫毅然決然地轉到王立學院上學。
王立學院每周只有二天上課,課程安排得很緊湊,從下午2點開始一直上到晚上10點,作業(yè)也留得很多。金鑫從5月開始在王立學院上課,直到12月叁加慶應大學考試,每天學習都很緊張?;仡櫘敃r刻苦學習的情景,她說:“長這么大,我也沒這么玩命地學習過?!薄〗瘀紊细咧袝r學的是理科,但在日本卻學習了兩年文科課程,盡管她說“這很不像自己”,但終還是改成了文科。金鑫之所以改學經(jīng)濟。經(jīng)營專業(yè),是因為王立學院有一位老師是慶應大學的畢業(yè)生。他向金鑫推薦考慶應義塾大學,上智大學,早稻田大學,一橋大學等大學
金鑫來日本的頭三個月往住日本語學校的宿舍里,后來在她父親朋友的介紹下到新小巖一個日本人家庭寄舍。本來金鑫只想托人幫忙介紹個住處,誰知那家人家說: “你就住在我家吧”,金鑫感激地接受了邀請。每天她用日語進行溝通,對提高日語會話能力是一個大好的機會。寄宿人家還和金鑫商量報考大學的事,使在日本舉目無親的金鑫就像找到了自己的家一樣。
來日翌年11月,金鑫叁加了留學考試和TOEFL考試,科目有日語,數(shù)學,綜合科目(地理,歷史,政治)。12月迎戰(zhàn)慶應面試,不久接到了合格通知書。金鑫回想起刻苦學習的這一年時感慨良多:“去年一年我都在拼命地學習,連自己都覺得自己了不起?!?BR> 目標明確非常重要
現(xiàn)為慶應大學一年級學生的金鑫回顧度過的幾年時光,她認為正是因為自己樹立起目標并為之備斗,才開拓了自己的人生。從和朋友湊熱鬧來日留學,在日本人家里寄宿,到一心考上大學頻頻轉校,拼死地學習……等等仿佛恍如昨日。2003年春,金鑫回開封市探親,媽媽高興得掉下了眼淚。金鑫自豪地對母親說: “媽媽,您的決定非常正確?!蹦赣H曾不止地鼓勵她說:“只要你努力去做自己想要做的事就好,即使沒考上大學也沒關系……”
金鑫說,他來日本后一直確信——“別人能做到的事,我通過努力也一定能夠做到?!薄傲魧W不是一件輕松事兒,可你輕松對待,它就會變得輕松。”“沒有目標就沒有成功。”現(xiàn)在金鑫和日本學生一起上課聽講,有時感到吃力,“雖然能聽懂卻來不及記筆記”。但她決不氣餒,力爭拿滿44個學分。為了愉快地度過大學生活,金鑫叁加了大學的攝影俱樂部和國際交流小組,在俱樂部里她結識了許多日本朋友,金鑫再感慨:“人生真是其樂無窮?!?BR> 參考
http://www.keio.ac.jp/index-jp.html
(<<出國與就業(yè)>> 04年2月登載
李 金キン(慶応義塾大學)
「人生はおもしろい」22歳になったばかりの李金キンはこの3年間を振り返りながら語った?!缸蛉照Q生日だったの、このインタビューが終わったら新宿で友達と食事をするの。祝ってくれるのよ!」と明るい聲で話してくれた。
3年前は自分が日本に留學するとは思ってもみなかった。母はキンキンが子供のころから「いつか外國に行って、知識と體験を積んだほうがいい」と言っていたが、キンキンは醫(yī)者を目指して大學受験した。自分の希望する大學に入れなかったキンキンは浪人狀態(tài)になってから「外國の大學に行こうかな」と考えフランス、ドイツ、シンガポールなどの大學入學について調べていた。その時點では日本留學はまったく考えていない。夏休み、友達が「日本に留學する」という話をした?!赣堰_が行くなら自分も行ってみようかな」と考えたのが始めて日本を意識した時だった。小學校時代からのクラスメート3人で「新しい人生を頑張ろう」と夢を語り合いながら2001年4月、同じ飛行機で日本に來た。
キンキンは日本に來る前に半年間、北京で一人住まいして人民大學の日本語コースで勉強した。初めて勉強した日本語でありほとんど力がつかなかった。 2001年4月來日して友達の親戚が紹介してくれた本郷教育學院に入學する。しかし、そこで勉強したのでは大學入學の実力をつけるには難しいと感じたキンキンは他の學校を探し、2年目は東京中央日本語學院に移った。しかしそこも、「日常會話」「國際交流」などの知識、體験は身につくが、キンキンが目的とする大學入學の勉強には不十分に感じた。新聞、インターネットなどで調べた結果、鷺宮に王立學院という大學受験を目的にした日本語學校があるのを知ってそこにも入學した。
王立學院は週2回しか授業(yè)がないが、午後2時から10時までみっちり授業(yè)があり宿題も多かった。5月に入學して12月の慶応義塾大學の試験まですごくきつい勉強の毎日だった?!袱ⅳ螭胜嗣銖姢筏郡长趣辖瘠蓼扦胜盲俊工去螗螭险瘠攴丹?。キンキンは、高校時代に理系コースで勉強していたが、日本での2年間の勉強生活で「自分には似合わない」と思い文系コースに変えた。経済?経営系にしたのは王立學院の先生が慶応経済學部大學院卒業(yè)だからだった。その先生はキンキンに慶応義塾大學、上智大學、早稲田大學、一橋大學などの受験を薦めてくれた。
來日して初の3カ月は日本語學校の寮に入った。その後、父の友達の紹介で新小巖にホームステイした。アパートを紹介してもらう予定が「家に住んでもいいですよ」という申し出を受け、キンキンはありがたく受けいれた。その家では日本語で會話をして、キンキンにとっては會話力上達の絶好の機會になった。大學受験のことでも相談に乗ってくれて、日本に身寄りのいないキンキンにとって頼りになる存在だ。
來日して2年目の11月、留學試験とTOEFL試験を受けた。日本語、數(shù)學、総合科目(地理、歴史、政治の含めた科目)だ。12月には慶応義塾大學面接を受け、その後合格の通知が屆いた。この1年間はハードな勉強の連続で「自分でも偉いと思うくらい昨年は頑張った」とキンキンはつい近のことを思い出す。
振り返ると、今、慶応義塾大學の1年生だが、目標を持って挑戦しながら自分の人生を切りひらいてきた數(shù)年だった。友達の日本留學に便乗して來日したキンキン、偶然であった日本の家庭でのホームステイ、「大學受験」に目標をあてた日本語學校探し、死ぬほど頑張った受験勉強???など。2003年春、開封市の実家に帰ったとき、母が泣いて喜んでくれた。キンキンは母に「お母さんの決斷は間違っていなかったですよ」と胸を張って言った。母は幾度となく「元気にやりたいことをやればいい。名門大學に入れなくてもいいから???」と勵ましてくれていたからだ。
キンキンは來日して確信したことがある。それは「他の人ができることは自分も頑張ればできる」「留學はそんなに楽しくない。しかし、楽しいと思えば楽しくなる」「目標をたてないと成功しない。また目標は変更することも必要だ」などだ。今、日本人學生と一緒に授業(yè)を受けているが講義の聴き取りに苦しんでいる?!袱铯毪堡丧惟`トを取れない」。しかし、44単位の授業(yè)を一生懸命受けている。キンキンは大學生活をエンジョイするために寫真部とコスミック(國際交流サークル)に入った。そこでは日本人の友達がたくさんできる。キンキンは改めて思う。「人生はおもしろい」。
李 金キン(ひとやねの下に金が三つ)、女、22歳、原籍河南省開封市。河南開封高級中學卒業(yè).2002年本郷教育學院、2003年東京中央日本語學院、王立學院を修了し、2003年4月慶応義塾大學経済部に入學、現(xiàn)在1年生。

