天聲人語09年01月18日

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安田禮堂事件40周年
    生まれて初めて、東京大學(xué)の本郷キャンパスに立ち入った。昭和史の舞臺の一つ、安田講堂の前に立つ。逸話の重さ、殘像の激しさのためか、焦げ茶の建物は意外に小さく見えた
    這是我有生之年第一次跨入東京大學(xué)的校園,并站在昭和歷史舞臺之一的安田禮堂前。也許是因為此前的無數(shù)傳聞在我心中留下的印象太深,所以,這一深棕色的建筑物看上去比我想像的要小得多。
    40年前のきょう、講堂を本丸にして構(gòu)內(nèi)に立てこもる學(xué)生約700人の強(qiáng)制排除が始まった。出動した機(jī)動隊は8500人。學(xué)園紛爭の天王山、2日にわたる安田講堂攻防戦だ
    40年前的今天,警方開始強(qiáng)制解散以講堂為根據(jù)地?fù)?jù)守在內(nèi)的約700名學(xué)生。出動的防暴警察達(dá)到8500人。此次校園爭端的勝負(fù)關(guān)鍵,就是持續(xù)了2天的安田講堂攻防戰(zhàn)。
    學(xué)生の演説と警察の退去警告、上空の取材ヘリ。講堂に向けて催涙弾と放水、逆の弾道で火炎瓶と投石が飛び交った。警視庁の擔(dān)當(dāng)課長として現(xiàn)場を指揮した佐々淳行(さっさ·あつゆき)さんは、それらが織りなす音の渦を「交響曲不快」と表現(xiàn)する
    學(xué)生們的慷慨演說;警察的撤離警告;以及上空盤旋的采訪用直升機(jī)······朝向講堂的催淚彈和高壓水炮、以及逆向襲來的燃燒彈和石塊交錯飛舞。當(dāng)時身為警察廳科長、擔(dān)任現(xiàn)場指揮的佐々淳行將這一投一擲間形成的聲音稱作“痛苦的交響曲”。
    先々の不利益を承知でとどまる學(xué)生らは、命がけで職務(wù)にあたる機(jī)動隊員に必死で抵抗した。講堂に籠城(ろうじょう)した島泰三(たいぞう)さんの著にある?!溉松文氦旆饯酥沥盲皮?、私は後悔していない。歴史のひとつの局面で、果たすべき義の一端を擔(dān)うことができたのは、わが人生の欣快(きんかい)である」
    明知此舉將對前途不利的學(xué)生們卻不愿離去、拚上身家性命對執(zhí)行任務(wù)的防暴警察殊死抵抗。曾堅持固守講堂的島泰三先生著書有云:“即使到了垂暮之年,我也不會后悔。在歷史的一頁中,能夠在理應(yīng)聲張的公義一方擔(dān)任一個角色,乃是人生中的大快事!”
    賛成の代わりに「異議なし!」、反対と言わず「ナンセンス!」。全共闘の運動を革命ごっこと嘲(あざけ)るのは楽だが、ベトナム反戦でも大學(xué)改革でも、時代と社會に向き合う一途さはまぶしい。その「熱いバトン」を落とした世代の、勝手な感傷だろうか
    用“無異議”代替“贊成”,不說“反對”而說是“荒謬”。也許人們可以不疼不癢的嘲笑“全學(xué)共斗會議”只是一場鬧劇,但無論是反對越戰(zhàn)活動還是大學(xué)改革活動都是時代和社會面向發(fā)展時最耀眼的一環(huán)。這也許也是筆者作為未能接住這“熱血接力棒”的一代人的自顧自的感傷吧。
    テレビの特番で、佐々さんが昨今の青年の冷めようを案じていた?!溉粽撙吓椁胜恪#矗岸趣侠Г毪常付趣椁い螣幛铣訾筏皮郅筏ぁ?。あの週末と同じ冬晴れの構(gòu)內(nèi)を、センター試験の受験生が埋める?!腹郡工伽x」に出會える日々、彼らにありやなしや。
    佐々先生在電視特輯中談到了目前青年人對世事態(tài)度過于冷淡的擔(dān)心。他說“青年們必須憤怒!雖然40度的怒火會產(chǎn)生負(fù)面效果,但我希望還是應(yīng)該對社會抱有38 度的熱情”。與40年前的那個周末一樣,陽光明媚的冬季,校園內(nèi)擠滿了參加入學(xué)考試的學(xué)生。在他們的人生中,是否會有為了與“理應(yīng)聲張的公義”相逢而奮斗的日日夜夜呢?
    東大安田講堂事件(とうだいやすだこうどうじけん)とは、1969年(昭和44年)1月18日·19日に、全學(xué)共闘會議(全共闘)が占拠していた東京大學(xué)本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。この影響で、この年の東京大學(xué)の學(xué)試験は中止され、次年度の入學(xué)者は0人となった。
    1960年代後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた學(xué)生による第二次反安保闘爭。それと時を同じくして、全國の國公立·私立大學(xué)において授業(yè)料値上げ反対·學(xué)園民主化などを求め、各大學(xué)の全共闘や新左翼の學(xué)生が武力闘爭を展開する學(xué)園紛爭(大學(xué)闘爭)が起こった。全共闘の學(xué)生達(dá)は大學(xué)*との「大衆(zhòng)団交」(団交)で自分たちの主張を強(qiáng)硬に唱え、それが認(rèn)められない場合は大學(xué)構(gòu)內(nèi)バリケード封鎖という強(qiáng)硬手段に訴えた。學(xué)園紛爭は全國に波及し、最盛期では東京都內(nèi)だけで55の大學(xué)がバリケード封鎖に入り深刻な社會問題に発展していった。