日語(yǔ)閱讀:大丸?松坂聯(lián)手經(jīng)營(yíng)

字號(hào):

飢饉(ききん)に苦しむ窮民の救済策を建言して果たせず、大坂東町奉行所の元與力で陽(yáng)明學(xué)者の大塩平八郎が兵を挙げたのは1837年(天保8年)のことである。一黨は町に火を放ち、豪商の蔵を襲った
    為陷入饑荒的貧苦人民向官方進(jìn)言要求實(shí)施救済卻遭到拒絕,于是,大坂東町奉行所屬下的與力(譯注:類似管理民政事務(wù)的警官)、陽(yáng)明學(xué)派儒者大塩平八郎于1837年(天保8年)舉兵起義。起義軍在町內(nèi)燒殺掠搶,襲擊了富豪們的倉(cāng)庫(kù)。
    「大丸は義商なり。犯すなかれ」。大塩の言葉で焼き打ちをまぬかれたと、大丸の社史にある。経営統(tǒng)合の交渉相手、松坂屋ホールディングスも歴史では負(fù)けていない
    “大丸乃信義之商。勿犯之?!庇捎谄桨死傻倪@句話,大丸免于一場(chǎng)洗劫之難?!笸枭躺绲纳缡分腥缡怯涊d。大丸的經(jīng)營(yíng)合并談判對(duì)手、松坂屋控股公司的歷史也與大丸不相上下。
    こちらは織田信長(zhǎng)の家臣だった伊藤蘭丸が1611年(慶長(zhǎng)16年)、名古屋にひらいた呉服店に始まる。新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)も上野店に奉公したことがあるという。いずれ劣らぬ老舗同士の縁談である
    松坂屋的前身是織田信長(zhǎng)的家臣伊藤蘭丸于1611年(慶長(zhǎng)16年)在名古屋創(chuàng)辦的和服綢布店。據(jù)說(shuō),新撰組(譯注:幕府時(shí)期京都治安隊(duì))的土方歳三也曾在上野松坂店工作過(guò)。二者都是老字號(hào)名店,經(jīng)營(yíng)合并是門當(dāng)戶對(duì)的“親事”。
    獨(dú)自の伝統(tǒng)と企業(yè)文化をもつ二つの百貨店が心を寄せ合ったのは、人口が減少し、市場(chǎng)が縮小していくなかで、統(tǒng)合による規(guī)模拡大に活路を求めてのことといわれる。ここにも少子化が影を落としている
    據(jù)說(shuō),各自擁有獨(dú)特傳統(tǒng)和企業(yè)文化的兩家百貨店之所以心心相印,是因?yàn)樗麄兿胍谌丝诓粩鄿p少,市場(chǎng)日益縮小的形勢(shì)下,從合并帶來(lái)的規(guī)模擴(kuò)大中,尋求一條活路。其中也受少子化問(wèn)題的影響。
    幕末の動(dòng)亂、恐慌、敗戦、石油危機(jī)、バブル崩壊と、數(shù)々の苦難を乗り越えてきた老舗も、ひとりで生きていくのがむずかしい。人口減少のうねりとはそういうものなのだろう
    歷經(jīng)幕府末期*、經(jīng)濟(jì)恐慌、二戰(zhàn)失敗、石油危機(jī)、泡沫經(jīng)濟(jì)瓦解等各種苦難的老鋪,如今,再也難以孤軍奮戰(zhàn)了。人口減少的滾滾浪潮就是這樣的情景吧。
    俳人田川飛旅子(ひりょし)さんに「遠(yuǎn)足の列大丸の中とおる」という句があった。浮き浮きとあたりを見回しながら売り場(chǎng)を抜けていく児童の列が目に浮かぶ。デパートとは子供を光源にしてきらきら輝く場(chǎng)所であったと、経済記事を読み終えて思う。
    俳句詩(shī)人田川飛旅子寫有這樣一句:“遠(yuǎn)足隊(duì)伍過(guò)大丸”。我的眼前浮現(xiàn)出興高采烈的孩子們排著隊(duì),東張西望地穿過(guò)大丸商場(chǎng)的情景。百貨是輝煌之地,它以孩子為光源。——讀罷經(jīng)濟(jì)報(bào)道,我這樣想。