天聲人語07年8月15日

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戦爭への反省
    昭和と切っても切れない人だからか。夏のきわみに、この春死去した城山三郎さんをめぐる本の出版が相次いでいる。17歳で入った「軍隊」が殘した傷痕から出発し、 生涯をかけて 戦爭を追究した作家である。
    難道是與昭和剪也剪不斷的人么?夏末之際,與今年春天去世的城山三郎先生有關的書籍接二連三出版。他以 17 歲入“武”所留下的傷痕為出發(fā)點,是一名耗費一生追究戰(zhàn)爭的作家。
    亡くなる前年にお會いしたとき、特攻の話になった。戦爭末期に「桜花」という特攻機があった。著陸する車輪さえなく、 體當たり だけを目的に作られた兵器である。あるとき米國の航空博物館で、城山さんは実物を見る。あまりにも狹い操縦席に、胸をしめつけられた。
    在城山先生去世的前一年拜見他的時候,我們聊了關于特攻的話題。戰(zhàn)爭末期,有一種名為“櫻花”的特攻機(指飛機,譯者注)。這是一種著陸時連滑輪也沒有,僅僅是以自滅方式攻擊對方為目的所制作的武器。有一次,在美國航空博物館,城山先生目睹了實物。胸口被緊緊卡在狹窄得不能再狹窄的操縱席上。
    若者が身體を折りかがめ 、兵器の一部となって乗り組んでいく。悲劇的な姿が脳裏に迫った。人格など顧みられず、人間が消耗品扱いされた時代を痛感したという。死んでいった兵への愛惜を語り、「行かせた者は許せない」と目を しばたかせて いた。
    年輕人們彎腰折身,作為武器的一部分編成而往。悲劇性的身姿印入腦海。據(jù)說,不顧人格種種,把人當作消耗品來使用的那個年代令城山先生倍感痛心。他訴說著對已經(jīng)死去的士兵的愛惜,眨巴著眼說道,“決不饒恕那些讓士兵去送死的人”。
    そして、城山さんのいない8月15日が巡る。人命を湯水のように戦場に つぎ込んだ 指導層の責任を、城山さんのように問う戦中派もいる。橫浜の飯?zhí)镞Mさん(84)は、南方での餓死、病死のありさまを書き殘そうと、時間と競爭の執(zhí)筆を進める。
    再來回顧一下城山先生已然不在人世的8月15日。同樣還有像城山先生那樣的戰(zhàn)中派,質(zhì)問那些把人送上水深火熱般戰(zhàn)場的統(tǒng)治者的責任。橫濱的飯?zhí)镞M先生(84歲)為了寫下(士兵在)南方(應該指新加坡、馬來西亞這樣的地方吧,譯者注)餓死、病死的情況而與時間賽跑,筆耕不斷。
    自らも死線をさまよった。軍部は拙劣な作戦を繰り返し、補給もなく、おびただしい兵を 野たれ死に させた。その責任に 目をつぶって 、慘めな戦死者を「英霊」と呼べば、戦爭の実相を隠すと思うからだ。
    他自己也在生死線上徘徊。軍方不斷做出蹩腳的作戰(zhàn)方案,沒有補給,大批大批的士兵死在路邊。因為(他們)覺得,如果對于這樣的責任視而不見,還把慘烈的戰(zhàn)死者成為“英靈”,就能隱埋戰(zhàn)爭的真相。
    この夏の、城山さんをめぐる一冊に、若いころの本人の詩があった。戦爭を、〈暖い生命を秤売(はかりうり)する〉ものだと 突いて いる。 気骨の作家の遺訓が聞こえてくるような、62年目の 蟬(せみ)時雨(しぐれ) である。
    在這個夏天,以城山先生為主題的一本書里,有一首他本人年輕時候的詩。他這樣抨擊著戰(zhàn)爭,“秤斤論量生生賣性命”。這是一個仿佛令人聽到鐵骨作家之遺訓的第 62 個百蟬起鳴時。