日本語能力測試2級讀解內(nèi)容問題(一)

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「日本の農(nóng)業(yè)が危ない!」と言われても、それがすぐ理解できる人は少ないだろう。スーパーマーケットにはカラフルなパッケージに包まれたいろいろな食品が並べられ、食事もかなり豊かだ。飢えで苦しんでいる人は、日本にはまったくいない。しかし、その豊かさは見せかけのものにすぎないのだ。食糧の自給率を見れば、それがはっきりする。米が自給率100%、野菜が90%で十分だが、魚、果物、砂糖の自給率はそれぞれ64%、59%、35%である。更に、小麥の自給率は10%で、殘りは輸入だ。大豆も自給率4%しかない(大豆は味噌やしょうゆの原料で、これがないと日本人はとても困る)。牛の飼料になるトウモロコシは100%輸入である。食糧全體では、計算のしかたによって若干の違いがあるが、大體50%前後である。
    つまり、豊かに見える日本のスーパーマーケットの食品や日本人の食事は、その半分は外國の農(nóng)産物に頼っているのである。
    問1:下線「その豊かさはみせかけのもの」とは、どういう意味ですか。
    1.豊かに見えるが、本當は豊かではない。
    2.本當に豊かで、それはだれが見てもすぐにわかる。
    3.豊かそうには見えないが、実は豊かだ。
    4.豊かであることを人に見せようとする。
    問2:下線「日本の農(nóng)業(yè)が危ない」とは、どういう意味ですか。
    1.日本で生産した食糧は大変危険であるから、外國人は買わない方がいい。
    2.小麥や大豆など外國から輸入したものは、危ないから食べない方がいい。
    3.このままでは日本の農(nóng)産物はすべて輸入となり、日本の農(nóng)業(yè)がなくなってしまう。
    4.日本は農(nóng)地がせまく食糧の自給率も低いから、外國から農(nóng)産物を買った方がいい。
    問3:TEXTの內(nèi)容を正しく表したものはどれですか。
    1.日本の農(nóng)業(yè)は米や野菜だけでなく、魚、果物、砂糖も十分に國內(nèi)で生産しているので、外國から輸入する必要はまったくない。
    2.日本の農(nóng)業(yè)は小麥やトウモロコシ、また大豆も輸入がほとんどである。また、米や野菜も輸入が多く、食糧全體の半分を輸入に頼っている。
    3.日本の農(nóng)業(yè)は米や野菜の外には、自給できるものがない。魚や果物や砂糖は國內(nèi)でも何%かは生産されているが、小麥や大豆などはほとんどが輸入である。
    4.日本の農(nóng)業(yè)は全體的に見て、輸入が半分である。特に、小麥、魚、野菜の輸入が多い。また、大豆、トウモロコシは100%輸入である。
    私はかつてドイツ文學とドイツ音楽にあこがれて一年間ドイツに滯在したことがある。そのために、何冊かの文法や會話の本を買って、ドイツ語を勉強した。
    その會話のテキストの中に、こんなことが書いてあった?!溉毡救摔斡Hは子どもが外の人にプレゼントやおみやげをもらった時、子どもといっしょにお禮を言うが、ドイツ人の親は絶対にお禮は言わない、また、お禮を言わないから、ドイツ人は無禮だと考えてはいけない?!?BR>    私はこの記述が信じられなかった。いくらドイツ人は個人主義思想が徹底しているといっても、子どもがプレゼントをもらって親が黙っているはずがないと思った。だから、この記述はたぶんドイツ人の個人主義を誇張するための作り話だろうと思った。
    しかし、私はこのことが誇張された作り話ではなく、事実であることを、ドイツへ行って知ったのである。私は三か所のユースホステルでアルバイトをした。そして、そのユースホステルのご主人の子どもに日本から持っていった絵はがきや子どものおもちゃをあげたのだが、どの親もにこにこ笑うだけで、一言もお禮の言葉を言わなかったのである。
    私は自分が日本人の物差しでドイツ人を見ていたのだということを反省した。同時に、ドイツ人のこの乾いた人間関係を日本人は理解できないし、もちろん、まねもできないと思った。
    問1:下線「日本人の物差しでドイツ人を見ていたのだ」とありますが、どんな意味ですか。
    1.子どもが他人にプレゼントやおみやげをもらった時、ドイツ人の親も日本人の親と同じように、絶対にお禮を言わないだろうと考えていた。
    2.子どもが他人にプレゼントやおみやげをもらった時、ドイツ人の親も日本人の親と同じように、いっしょにお禮を言うはずだと考えていた。
    3.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった時、ドイツ人の親は必ず子どもにお禮を言わせるはずだと考えていた。
    4.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった時、日本人は親もいっしょにお禮を言うが、ドイツ人は特にお禮を言わないと考えていた。
    問2:下線「ドイツ人のこの乾いた人間関係を理解できない」とありますが、どのような人間関係ですか。
    1.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった場合、もらったのは確かに子供だが、親子は他人ではないので、親もいっしょにお禮を言うのが當然だと考えるような人間関係.
    2.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった場合、もらったのは子供なので、子供がお禮を言えばそれで十分である。親がいっしょにお禮を言うのは、逆に無禮であると考えるような人間関係.
    3.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった場合、子供がもらったのだから、親がお禮を言う必要はないと思ってはいるが、相手の気持ちも考えて、お禮の言葉を言うような人間関係.
    4.子供が他人にプレゼントやおみやげをもらった場合、もらったのは子供であって、親は自分がもらったわけではないのだから、親は子供といっしょにお禮を言う必要はないというような人間関係
    マレーシアに來てしばらくしてから、私は子どもを連れて、あるデパートの四階にある遊園地に行きました。私はその時、軽いカルチャーショックを感じたのです。その遊園地の入り口には、晝間なのにネオンサインがあり、しかも、そのネオンサインには星がデザインされていたのです(寫真參照)。それから、遊園地の中も薄暗く、まるで夜か夕方の世界でした。日本の遊園地はたいてい外にあります。だから、當然明るいです。もちろん、デパートにも小さな遊園地がありますが、普通は屋上にあります。建物の中の遊園地は、日本では考えられません。
    私はその時、これは太陽に対する考え方、感じ方が違うのだと思いました。日本人は太陽が昇ると同時に働きはじめ、夕方、日が暮れるころに家に戻ってきます。子どもは太陽の光をいっぱいに浴びで、外で思いっきり遊ぶのがよいとされています。太陽は生命の源なのです。それに対して、マレーシアなど熱帯の國では、一日中太陽の光を浴びていたら、病気になったり、時には死んでしまうこともあるのです。つまり、太陽というのは、恐ろしいものなのです。したがって、マレーシアの人々は、焼けつくような太陽が沈むと、生き返ったように家から外に出て、パサール?マラムなどに行きます。①これは太陽を避けようとする思想の現(xiàn)れです。
    また、日本では一日の始まりは朝ですが、マレーシアでは太陽が沈むと、一日が終わり、新しい次の日が始まるのです。夜になり涼しくなって、空には月や星が輝きはじめます。夜、月、星が彼らの救いであり希望なのです。マレーシアの國旗に月と星が描かれているのは、それを大切に思っているからだと考えられます。それに対して、日本の場合は、國旗の真ん中に太陽が大きく描かれています。②これは日本人が太陽をすばらしいものと考えているからであります。
    このように、マレーシア人と日本人は太陽に対する考え方が違います。私は日本人ですが、私たち日本人が普通だ、當然だと考えていることが、外の國で普通でもないし、當然でもないことがあるのです。もちろん、マレーシア人にも同じことが言えると思います。
    問 この文章で筆者が言いたいことは何ですか。
    1.自分が普通だと思っていることでも、外の國では普通ではないこともある。例えば、日本人が太陽をすばらしいと思っても、外國人はそうは感じないこともある。
    2.國旗のデザインから、マレーシアと日本では太陽や月に対する考え方が違うことまでわかり、とても面白い。
    3.日本の遊園地は公園など、外にあるが、マレーシアは暑いので、遊園地は外には造らない。
    4.人の考え方はそれほど違わないので、自分が普通だと思えば、外の人も普通だと思っていることが多い。
    「うそ」はもちろん悪いことですが、時と場合によっては、何かの役に立つ「いいうそ」もあります。日本語には「うそも方便」という極めて便利な言葉もあります。
    一番の方便は、學校の先生の「うそ」でしょう。子供を勇気づけたり、元気づけたりするために、先生はわざと「うそ」をつくことがあります。例えば、體育で跳び箱が跳べない子供や鉄棒ができない子供を叱咤激勵して、「君は上手なんだよ」と持ち上げたり、本當は下手なのに、「上手だったね」とほめてあげたりする。そうすれば、子供は次はがんばろうと思うのである。仮に、それがうそだとわかっていても、子供には先生の気持ちは通じるものである。
    また、親も先生と同様に、子供を育てる上で、よくうそをつきます。よくできたことをほめてあげるのは當然ですが、うまくできなかったことでも、ほめた方がいいでしょう。
    このような先生や親の「うそ」は、教育的にも道徳的にも認められる「うそ」です。
    ここに面白い実験がありますので、紹介します。
    「小學校四年生の能力の等しい三つのグループを作り、第一グループには常にほめことばを與え、第二グループは常に叱り、第三グループはほめも叱りもせず、それぞれ同じ問題で足し算の練習をさせたのです。この実験は五日続けられましたが、その結(jié)果、第一グループは確実に成績が上昇していきますが、第二グループは一時的には伸びますが、途中で停滯してしまい、効果が現(xiàn)れません。第三グループは三日目までは上昇しますが、あとは成績が下がるばかりとなってしまいます」(相場均(1965)「うその心理學」講談社現(xiàn)代新書, 講談社)
    この実験でもわかるように、子供にやる気を起こさせるようなうそは、歓迎されるべきでしょう。
    まさに「うそも方便」なのです。