中國(guó)初めての天下統(tǒng)一を成し遂げた秦(紀(jì)元前221-206)の始皇帝。彼が北方民族匈奴の侵入を防ぐために萬(wàn)里の長(zhǎng)城を建設(shè)したことはあまりにも有名。この長(zhǎng)城建設(shè)にまつわる1人の悲しい女性の伝説が殘っている。原題は、「孟姜女哭倒萬(wàn)里長(zhǎng)城(=孟姜女泣いて長(zhǎng)城を倒す)」。長(zhǎng)城をめぐる伝説が數(shù)多く殘されている中で、この話は今も中國(guó)の人々に愛されて最も広まっているものの一つである。中國(guó)の中國(guó)故事集の類には必ず取り上げられているほどである
むかし、孟という家に孟姜女という美しい娘がいました。孟姜女は両親に大切に育てられ、家から一歩も外に出たことがありませんでした。ある日孟姜女が侍女たちと家の庭で遊んでいると、築山の影から1人の男が自分を見ているのに気づきました。孟姜女はびっくりして聲を上げたので、侍女たちはこの男を取り押さえました。
「お許し下さい。お願(yuàn)いです。私は范喜良と申す者です。追っ手から逃れようとしていたら、誤ってこの庭に迷い込んでしまったのです」
當(dāng)時(shí)秦の始皇帝が萬(wàn)里の長(zhǎng)城建設(shè)のために全國(guó)から人々を連行し、労役を課していました。それは厳しい重労働で、飢えや疲労から命を失うものも多かったのです。書生であった范喜良もこの労役を命ぜられ、役人に捕まえられそうになって逃げ込んだのが、孟家の庭だったというわけです。
范喜良は事情を話して、許しを請(qǐng)いました。侍女たちは范喜良を問(wèn)い詰めましたが、孟姜女は范喜良をかわいそうに思い、何とか助けてあげられないものかと考えました。
「お父さまのところへ、お連れして」
と、孟姜女は侍女たちに言いつけました。最初孟姜女の父親は彼をどうしたものかと迷いましたが、話してみると大変人柄もよく、學(xué)問(wèn)にも通じているので、とりあえず孟家でかくまうことにしました。そのうち二人は相思相愛の仲になり、両親を説得して結(jié)婚の承諾まで取り付けたのでした。
幸福絶頂の二人に突然不幸が訪れたのは、結(jié)婚式の當(dāng)日でした。親戚など大勢(shì)の人たちがお祝いに駆けつけ、まもなく式が終わろうとしていたとき、突然役人たちが踏み込んできて、范喜良を捕まえていってしまったのです?;ㄐ訾昧ⅳ皮椁欷菩肖盲酷?、孟家は大騒ぎになりました。孟姜女の悲しみようといったらありません。
「あの人は今頃どうしているかしら。どうして私たちはこんな目に合わなければならないの?」
寢ても覚めても夫を思い、夫からの便りを待ちわびていました。
待てど暮らせど夫からの便りはありません。春がすぎ夏になり、そして秋になり冬が近づきました。中國(guó)では昔から「寒衣を贈(zèng)る」といって、家を離れている家族に冬著を?qū)盲堡肓?xí)慣があります。
「家でいつまでも待っていたって仕方ない。そうよ、私があの人に會(huì)いに行けばいいんだわ」
孟姜女は夫に冬著を?qū)盲堡毪郡幛恕⑷f(wàn)里の長(zhǎng)城に行く決心をしました。反対する両親を説得し、とうとう夫に會(huì)うために千里の道に旅立ったのです。
道中風(fēng)雨に曬され、険しい山をいくつも越え、急流をいくつも渡り、女の一人旅は苦労の連続でした。お腹がすいたときは草木を食べ、靴は破れ*足の足は傷だらけでした。それでも、「長(zhǎng)城に行けば、あの人に會(huì)える」
という粘り強(qiáng)い気迫と夫への深い愛を支えに、歩き続けました。
「どんなに苦労をしても、あの人を捜してみせる。そして見つけたら絶対離れはしないわ」
と心の中で叫びながら、前に進(jìn)みました。そしてやっと萬(wàn)里の長(zhǎng)城にたどり著いたときには、既に雪が降り出す頃でした。
萬(wàn)里の長(zhǎng)城に著いても、夫のいるところはどこかわかりません。孟姜女は長(zhǎng)城に働く人々を訪ね、うわさを追うようにして、ようやく夫ことを知っている人を捜し當(dāng)てました。
「それで、あの人はどこにいるのですか?」
「死んだよ。ちょうどこの當(dāng)たりに埋められているはずだ」
「えっ? そんな!」」
孟姜女はへたへたと座り込んでしまいました。ひたすら思いつづけていた人がもうこの世の人ではなくなっていたとは。今まで張り詰めていた糸が急に切れると、これまでの肉體的、精神的な疲れとどうしようもない絶望感が襲って來(lái)ました。
「どうして。どうして。私たちは一日も一緒に暮らしていないのに。あの人はどんな思いで死んでいったのだろう。私に何か言い殘したいことはなかったのだろうか」
と夫の無(wú)念を思い、涙が流れ出しました。
「ああ、私はこれからどうして生きていったらいいのだろう」
夫がいないのだという空しさも襲って來(lái)て、涙は止めどなく溢れ、時(shí)間が経つのも忘れ泣き続けました。
孟姜女は悲しみのあまり、三日三晩泣き続けました。すると空が暗くなり雨がふりだしました。風(fēng)が起こり強(qiáng)く吹き出しました。そして雷鳴が轟いたかと思うと、その轟音と共に孟姜女の目の前の萬(wàn)里の長(zhǎng)城が、突然からがらと音を立てて崩れ落ちました。そして崩れたところから、何人もの遺體が現(xiàn)れたのです。孟姜女は目を見張りました。そして思い直すと、狂ったようにその遺體の中に夫の姿を捜し始めました。常人には考えられないまでの気丈さで、多くの死體の中から必死になって夫の遺體を捜しました。そしてとうとう、愛する夫の遺體を発見したのです。長(zhǎng)い間脳裏から離れなかった夫との対面でした。
孟姜女は夫の遺體を抱え帰路に著きました。ところが悲しいことに、孟姜女はその途中で亡くなったと伝えられています。
山海関の絶壁から、夫と共に海に身を投げたという説もある。孟姜女が飛び込んだ場(chǎng)所には、お寺が建てられ、孟姜女寺(河北省秦皇島市海関、山海関から五キロほどのところ)と呼ばれてる。小高い山の108段の石段を登ると孟姜女の坐像があり、白い服で心配そうな顔をして海を見つめている。像の上に「萬(wàn)古流芳(=美名を後世に殘す)」という文字が掲げられている。両脇には「秦皇安在哉 萬(wàn)里長(zhǎng)城築怨 姜女未亡也 千秋片石銘貞(=秦の始皇帝は死して、萬(wàn)里の長(zhǎng)城で恨みを築く。孟姜女は未だ死せず、永遠(yuǎn)に貞女の名を殘す)」という対聯(lián)が掛かっている。寺の両側(cè)には「海水朝朝朝朝朝朝朝落、浮雲(yún)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)消」という有名な対聯(lián)がある。寺の後ろには人の背丈ほどの「望夫石」と刻まれた巖があり、その巖の頂までに大きな窪みがあって、孟姜女が夫を眺めて踏んだ足跡だと伝えられている。(おわり)
むかし、孟という家に孟姜女という美しい娘がいました。孟姜女は両親に大切に育てられ、家から一歩も外に出たことがありませんでした。ある日孟姜女が侍女たちと家の庭で遊んでいると、築山の影から1人の男が自分を見ているのに気づきました。孟姜女はびっくりして聲を上げたので、侍女たちはこの男を取り押さえました。
「お許し下さい。お願(yuàn)いです。私は范喜良と申す者です。追っ手から逃れようとしていたら、誤ってこの庭に迷い込んでしまったのです」
當(dāng)時(shí)秦の始皇帝が萬(wàn)里の長(zhǎng)城建設(shè)のために全國(guó)から人々を連行し、労役を課していました。それは厳しい重労働で、飢えや疲労から命を失うものも多かったのです。書生であった范喜良もこの労役を命ぜられ、役人に捕まえられそうになって逃げ込んだのが、孟家の庭だったというわけです。
范喜良は事情を話して、許しを請(qǐng)いました。侍女たちは范喜良を問(wèn)い詰めましたが、孟姜女は范喜良をかわいそうに思い、何とか助けてあげられないものかと考えました。
「お父さまのところへ、お連れして」
と、孟姜女は侍女たちに言いつけました。最初孟姜女の父親は彼をどうしたものかと迷いましたが、話してみると大変人柄もよく、學(xué)問(wèn)にも通じているので、とりあえず孟家でかくまうことにしました。そのうち二人は相思相愛の仲になり、両親を説得して結(jié)婚の承諾まで取り付けたのでした。
幸福絶頂の二人に突然不幸が訪れたのは、結(jié)婚式の當(dāng)日でした。親戚など大勢(shì)の人たちがお祝いに駆けつけ、まもなく式が終わろうとしていたとき、突然役人たちが踏み込んできて、范喜良を捕まえていってしまったのです?;ㄐ訾昧ⅳ皮椁欷菩肖盲酷?、孟家は大騒ぎになりました。孟姜女の悲しみようといったらありません。
「あの人は今頃どうしているかしら。どうして私たちはこんな目に合わなければならないの?」
寢ても覚めても夫を思い、夫からの便りを待ちわびていました。
待てど暮らせど夫からの便りはありません。春がすぎ夏になり、そして秋になり冬が近づきました。中國(guó)では昔から「寒衣を贈(zèng)る」といって、家を離れている家族に冬著を?qū)盲堡肓?xí)慣があります。
「家でいつまでも待っていたって仕方ない。そうよ、私があの人に會(huì)いに行けばいいんだわ」
孟姜女は夫に冬著を?qū)盲堡毪郡幛恕⑷f(wàn)里の長(zhǎng)城に行く決心をしました。反対する両親を説得し、とうとう夫に會(huì)うために千里の道に旅立ったのです。
道中風(fēng)雨に曬され、険しい山をいくつも越え、急流をいくつも渡り、女の一人旅は苦労の連続でした。お腹がすいたときは草木を食べ、靴は破れ*足の足は傷だらけでした。それでも、「長(zhǎng)城に行けば、あの人に會(huì)える」
という粘り強(qiáng)い気迫と夫への深い愛を支えに、歩き続けました。
「どんなに苦労をしても、あの人を捜してみせる。そして見つけたら絶対離れはしないわ」
と心の中で叫びながら、前に進(jìn)みました。そしてやっと萬(wàn)里の長(zhǎng)城にたどり著いたときには、既に雪が降り出す頃でした。
萬(wàn)里の長(zhǎng)城に著いても、夫のいるところはどこかわかりません。孟姜女は長(zhǎng)城に働く人々を訪ね、うわさを追うようにして、ようやく夫ことを知っている人を捜し當(dāng)てました。
「それで、あの人はどこにいるのですか?」
「死んだよ。ちょうどこの當(dāng)たりに埋められているはずだ」
「えっ? そんな!」」
孟姜女はへたへたと座り込んでしまいました。ひたすら思いつづけていた人がもうこの世の人ではなくなっていたとは。今まで張り詰めていた糸が急に切れると、これまでの肉體的、精神的な疲れとどうしようもない絶望感が襲って來(lái)ました。
「どうして。どうして。私たちは一日も一緒に暮らしていないのに。あの人はどんな思いで死んでいったのだろう。私に何か言い殘したいことはなかったのだろうか」
と夫の無(wú)念を思い、涙が流れ出しました。
「ああ、私はこれからどうして生きていったらいいのだろう」
夫がいないのだという空しさも襲って來(lái)て、涙は止めどなく溢れ、時(shí)間が経つのも忘れ泣き続けました。
孟姜女は悲しみのあまり、三日三晩泣き続けました。すると空が暗くなり雨がふりだしました。風(fēng)が起こり強(qiáng)く吹き出しました。そして雷鳴が轟いたかと思うと、その轟音と共に孟姜女の目の前の萬(wàn)里の長(zhǎng)城が、突然からがらと音を立てて崩れ落ちました。そして崩れたところから、何人もの遺體が現(xiàn)れたのです。孟姜女は目を見張りました。そして思い直すと、狂ったようにその遺體の中に夫の姿を捜し始めました。常人には考えられないまでの気丈さで、多くの死體の中から必死になって夫の遺體を捜しました。そしてとうとう、愛する夫の遺體を発見したのです。長(zhǎng)い間脳裏から離れなかった夫との対面でした。
孟姜女は夫の遺體を抱え帰路に著きました。ところが悲しいことに、孟姜女はその途中で亡くなったと伝えられています。
山海関の絶壁から、夫と共に海に身を投げたという説もある。孟姜女が飛び込んだ場(chǎng)所には、お寺が建てられ、孟姜女寺(河北省秦皇島市海関、山海関から五キロほどのところ)と呼ばれてる。小高い山の108段の石段を登ると孟姜女の坐像があり、白い服で心配そうな顔をして海を見つめている。像の上に「萬(wàn)古流芳(=美名を後世に殘す)」という文字が掲げられている。両脇には「秦皇安在哉 萬(wàn)里長(zhǎng)城築怨 姜女未亡也 千秋片石銘貞(=秦の始皇帝は死して、萬(wàn)里の長(zhǎng)城で恨みを築く。孟姜女は未だ死せず、永遠(yuǎn)に貞女の名を殘す)」という対聯(lián)が掛かっている。寺の両側(cè)には「海水朝朝朝朝朝朝朝落、浮雲(yún)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)長(zhǎng)消」という有名な対聯(lián)がある。寺の後ろには人の背丈ほどの「望夫石」と刻まれた巖があり、その巖の頂までに大きな窪みがあって、孟姜女が夫を眺めて踏んだ足跡だと伝えられている。(おわり)