日語(yǔ)閱讀:振り向けば50年(一)

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ジャパン??アズ??ナンバーワンとまで言われた戦後日本の復(fù)興と繁栄。五十年前、一體誰(shuí)がこの姿を想像したでしょうか。
    あの日、飢えと虛脫感のどん底で聞いたあの聲。當(dāng)時(shí)、この焼け跡をニュースカメラマンとして空から撮影した淺井さんが今同じアングルで撮影しています。この空の下に五十年の歳月が流れました。そして、また、日本は雷神ぐさんとして警戒されるようにもなりました。日は沈み、日はまた昇ったんです。
    この頃、日本の権力者と言われた人はここにいました?;示婴认颏ず悉盲郡ザ摔蜧HQ.連合國(guó)軍司令官ダグラス??マッカーサー元帥は日本人がかつて神と仰いだ人と肩を並べ、どちらが権力者かを無(wú)言で示したのです。
    進(jìn)駐軍と言う名は當(dāng)時(shí)のオールマイティーでした。何事も進(jìn)駐軍の命によりでなければ始まらなかったのです。進(jìn)駐軍の命により財(cái)閥は解體されました。進(jìn)駐軍の命による農(nóng)地解放、進(jìn)駐軍の命による労働組合の結(jié)成。
    食べる物もなく、著の身著のまま、家もなく、食もなく、耐えがたきを耐える日々が始まったのです。
    掘っ建て小屋の民主主義.
    この頃、食べることと著る事に関しては、すべて國(guó)からの配給でした。そこに流れたのはラジオからの侘しい配給便りでした。
    家なき人々は駅の地下道をねぐらとしました。むしろにくるまり、冷たいコンクリートの上に寢て、飢えと寒さのため、二度と目の覚めない人が毎日のように出ました。
    米よこせでも、僅か二合三杓の配給もしばしば遅配、欠配したのです?;示盂嘞陇搜氦窉欷堡骏钎怅?duì)は、天皇陛下の臺(tái)所を見(jiàn)せろと迫りました。
    レールも車両も老朽化した國(guó)鉄は超満?jiǎn)Tの人々を運(yùn)びました。乗るほうも命懸け、皆闇米の買(mǎi)い出しです。
    それも一斉取締で一網(wǎng)打盡。やっとの思いで手に入れた食糧は否応なく取りあげられました。活気があったのは闇?zhǔn)肖扦?。食べ物なら何でも売れました。その中で寶石のように?jiàn)えたのはたった一つのお握りでした。
    インフレで物価は鰻登りでした。しかも預(yù)金封鎖で使えるのは月に僅か300円。煮る物がなくても鍋が飛ぶように売れました。
    もく拾い、人の捨てた吸い殻でも貴重でした。吸い殻を解して巻けば売り物になるのです。
    主に進(jìn)駐軍相手の靴磨きは戦爭(zhēng)孤児の生きるための手段でした。
    飲兵衛(wèi)が飲む酒がなくなってお銚子やお豬口を闇?zhǔn)肖藟婴毪妊预犹俜祭嗓丹螭蝸鳏筏ぢ?huà)。
    樺太や満州、朝鮮などから総てを失った人々が引き上げてきます。吹けば飛ぶような引き揚(yáng)げ者住宅。あの頃、焼け跡に土地は余っていたのですが、住宅は決定的に不足していたのです。やすぶしんでも高値の花、7萬(wàn)5千円、今ならオークションでしょうか。當(dāng)時(shí)規(guī)制があって、東京へは簡(jiǎn)単に転入できなかったんです。しかし、大きな家も財(cái)産稅で取られる事が多かったのです。
    虱が集るのは浮浪児だけではありませんでした。進(jìn)駐軍は誰(shuí)彼かまわず殺蟲(chóng)剤のDDTを吹き付けました。虱潰しとはこの事です。
    こんな時(shí)代に生まれてきた赤ちゃんこそ災(zāi)難です。捨てられて、母の愛(ài)も知らず、暖かい揺りかごも知らず、団塊の世代はスタートから厳しい運(yùn)命でした。
    親はなくとも恐らず、自分の才覚でたくましく生きる浮浪児もいました。青空の下に自由がある、焼け跡、闇?zhǔn)肖长絻Wらの天國(guó)。児童福祉法はまだありません。時(shí)々、役所の人が捕まえに來(lái)ますが、しばらく施設(shè)でおとなしくして、また飛び出すのです。
    その頃、ラジオの街頭録音という番組が評(píng)判でした。スタジオを出て、社會(huì)の現(xiàn)実の中で人々の生の聲を聞いたのです。
    當(dāng)時(shí)パンパンガールと呼ばれた夜の女は6大都市で4萬(wàn)人もいたと言われています。この世界の姉御と言われた落町のおときさんのインタビュー.
    戦中からの教科書(shū)に墨が塗られました。戦災(zāi)を受けた學(xué)校も多く、教室の足りないところでは、青空教室で六三制がスタートしました。この六??三制も進(jìn)駐軍の指示でした。學(xué)校給食はまだなくて、子供達(dá)は皆栄養(yǎng)失調(diào)気味でした。
    ところで、終戦直後の家計(jì)簿はどうだったのでしょうか。この寺島さん一家は當(dāng)時(shí)花形産業(yè)だった炭鉱にいたので、一般家庭より條件がよかったようですが、それでもぎりぎりの生活でした。家計(jì)簿數(shù)字は當(dāng)時(shí)のインフレーのすごさを物語(yǔ)っています。
    戦後の混亂した家庭経済はどうだったのでしょうか。評(píng)論家の今井森夫さんに聞いてみました。
    昭和21年4月10日、新しい選挙制度の元、戦後初めての総選挙が行われた。この時(shí)、女性に初めて參政権が認(rèn)められました。
    婦人議員が大量に誕生、社會(huì)黨から立候補(bǔ)して、亂闘國(guó)會(huì)でも壇上でも頑張った事のある山口靜江さん。
    昭和21年11月3日、新憲法が公布されました。
    その頃、激化する労働攻勢(shì)に不逞のやからと吉田首相が放言。官公庁組合を中心に、一気に二??一ゼネストの気運(yùn)が高まりました。政府の*叫ぶ組合に対し、GHQの方針は抑制に変わって行ったのです。當(dāng)時(shí)、新聞?dòng)浾撙趣筏?、労働情勢(shì)を取材していた小原さんはこう言いました。
    千人の首切りに反対し、ピケットラインを貼って闘爭(zhēng)中の東寶撮影所。ここにもレット??パージの嵐が吹き荒れました。警察とともに、米軍も出動(dòng)、戦車まで姿を現(xiàn)わし、來(lái)なかったのは軍艦だけという情況になりました。
    畫(huà)家平?jīng)gが逮捕され、死刑の判決を受けましたが、無(wú)罪の判決を叫び続けて、昭和62年獄中で95歳の生涯を終えました。
    八高線の買(mǎi)い出し列車の転覆事故。死者174人。生きるための買(mǎi)い出しも命懸けだったのです。下山さんはやがて國(guó)鉄総裁となりました。ドッジラインによる人員整理を通告する朝、行方不明となり、間もなく轢死體となって発見(jiàn)されたんです。自殺か他殺か、未だに謎に包まれたままです。
    第二次人員整理通告の後、今度は三鷹事件、続いて松川事件。國(guó)鉄をめぐる大事件が続く中で、九萬(wàn)五千人の大量首切りが行われたのです。
    1948年、極東軍事裁判、勝者が敗者を裁いたとも言われました。右翼イデオローグ、大川周明のパフォーマンス。彼は精神障害とされ、被告から除外されました。の一隅、かつて公衆(zhòng)大のあった所。同じ敷地にはその後サンシャインビルが立ちました。しかし、戦爭(zhēng)責(zé)任と戦後補(bǔ)償の問(wèn)題は未だに後を引いています。
    異國(guó)の陸から待ちかねた帰國(guó)です。厚生省の調(diào)べによりますと、ソ連からの帰國(guó)者は総數(shù)47萬(wàn)3千人に上ります。その中に、巨人軍の水原選手の姿もありました。彼はここからまっすぐ後楽園球場(chǎng)へ駆けつけました。飢えと寒さと重労働でシベリアの土になってしまった人は5萬(wàn)5千人と言われています。岸壁の母はいつまでも待ち続けました。
    銀座、昔の面影はありませんが、柳は芽を吹きました。元?dú)荬瑜盲郡韦象抑渺o子さん、暮しの苦労なんか吹き飛ばすような音楽でした。國(guó)民の寵児番組の始まりです。
    その場(chǎng)で當(dāng)たるスピード籤.いろんな籤がありました。野球籤、相撲籤、そして貧乏籤.當(dāng)たりはタバコ。そのごろ、タバコはまだ配給で、結(jié)構(gòu)貴重品でした。人気を呼んだのは‘ピース’。これに対して、安い闇タバコも出現(xiàn)しました。どんなルートで出回るのか正體不明の闇タバコ。その取り締まりです。
    この頃、流行したのはヒロポンを売って世相を書(shū)きなぐった流行作家もいました。
    性の解放は戦後の風(fēng)俗。蕓術(shù)か、猥褻か、いつの時(shí)代でも論議の種です。かすとり雑誌の氾濫.
    混亂の世相にいろいろな宗教が現(xiàn)れました。踴り宗教もその一つです。踴って陶酔するのはテンポが違っても、ディスコと変わりはないようです。
    各地への巡幸で昭和天皇の人気は大変でした。當(dāng)時(shí)、経済復(fù)興の原動(dòng)力だった炭鉱の激勵(lì)のため坑內(nèi)にも入られたのです。
    東西冷戦構(gòu)造の一角が破れ、朝鮮半島では昭和25年6月、熱い戦爭(zhēng)が始まりました。北から南まで激しい戦火が広がり、一つの民族が引き裂かれました。この戦爭(zhēng)が日本に砲弾やジープや毛布を作る特需景気をもたらしたのです。金編と糸編のブームと呼ばれました。
    昭和26年9月、サンフラウウシスコ講和條約の調(diào)印が行われました。翌年4月、條約が発効、日本は7年間の占領(lǐng)時(shí)代時(shí)代に終わりを告げ、國(guó)際社會(huì)に復(fù)帰しました。その直後、いわゆるメーデー事件が起こりました?;示婴菺HQの目の前で繰り広げられた流血の亂闘、もうそのとき、マッカーサー元帥は退任されて、アメリカへ去っていきました。
    米軍が朝鮮半島へ出動(dòng)して、がら空きとなった日本の防御のため、マッカーサーの指示で警察予備隊(duì)が誕生、やがて保安隊(duì)、自衛(wèi)隊(duì)と名を変えていきました。
    昭和29年9月、洞爺丸事故、1155人の乗客が臺(tái)風(fēng)の荒れ振るう北の海に飲み込まれました。同じ年、もう一つの悲劇の船、ビキニ水爆実験の死を浴びた第五福龍丸。副船長(zhǎng)久保山合吉の死は原水爆反対の運(yùn)動(dòng)を全國(guó)に広げました。そして、広島の第一回原水爆禁止世界大會(huì)と発展したのです。昭和29年2月、造船業(yè)界と政界の癒著に検察のメスが入り、當(dāng)時(shí)の自由黨幹部や造船會(huì)社のトップが次々と逮捕されました。いわゆる造船疑獄です。
    三木トリローグループの冗談音楽は庶民のやり場(chǎng)のない怒りを山葵の利いた風(fēng)刺で晴らすラジオの人気番組でした。
    國(guó)民を元?dú)莞钉堡郡韦蠝ú┦郡违惟`ベル物理學(xué)賞受賞でした。湯川さんは後にノーベル物理學(xué)賞受賞する共名賀博士と共に核廃絶を訴え続けました。
    富士山の飛魚(yú)、古橋広之進(jìn)、泳ぐたびに世界記録をぬりかえ、日本人に自信を回復(fù)させたヒーローでした。
    戦後初めて來(lái)日した本場(chǎng)アメリカの大リーグ選抜チーム。
    昭和28年2月、いよいよテレビ時(shí)代、NHK東京テレビの開(kāi)局です。番組はすべて生放送、演ずるほうも撮る方も手探りの本番でした。街頭テレビの人気が集まり、中出も人々を熱狂させたのはプロレス中継でした。
    昭和28年、當(dāng)時(shí)貴重品だったカラーフィルムで撮影した東京の風(fēng)景です。銀座四丁目をのんびりと馬車が通っていました。數(shù)寄屋橋はまだ健在、待人來(lái)らず。
    競(jìng)輪、地方自治體は暫くこのギャンブルの寺銭で潤(rùn)いました。大罠もあれば八百長(zhǎng)騒ぎもあり、とにかく大衆(zhòng)の気持ちを引き付けました。
    パチンコ、當(dāng)時(shí)は玉を指で弾いていました。やがて、電動(dòng)式が登場(chǎng)します。今ではIC制御のハイテク機(jī)器となり、年商17兆円もの一大産業(yè)となっています。ギャンブルですっからかんになった人を待つのはおけらかいどうの質(zhì)屋さん。
    ようやく衣食足りて、女性達(dá)も美しさへの憧れを知ります。八頭身が持てはやされ、及ばぬこととは知りながら、我もわれもと身長(zhǎng)を引き伸ばし、ウェストを引き締めようと頑張りました。オードリヘプハーンに肖ろうとショートカットが流行りました。君の名はまちきまき。流行とは流れゆく事なり、流れ得ずして流行を追う心の悲しさよ。
    昭和31年の経済白書(shū)は、もはや戦後ではない、我々は今や異なった時(shí)代に直面しようとしていると宣言し、技術(shù)革新による近代化はアピールしました。
    昭和30年11月、民主黨と自由黨の保守勢(shì)力が合併し、自由民主黨を結(jié)成。また、左右社會(huì)黨が統(tǒng)一され、日本社會(huì)黨を結(jié)成しました。所謂55年體制の誕生です。北方領(lǐng)土返還はなりませんでしたが、これで、日本の國(guó)連加盟の道が開(kāi)けました。