日語閱讀:幸せサラダ

字號:

すみれさんは、都會の雑誌社に勤めていました。
    小さな雑誌社でしたが、記事を書かせてもらえることはめったになく、お茶を入れたり、おそうじをしたり、資料を整理したりの毎日でした。でもすみれさんは、いつかすばらしい記事を書くことを夢見て、朝から晩まで元気に飛び回っていました。
    そんなすみれさんが、このごろ窓辺に立って、四角い空をポツンと見上げていることが多くなりました。仕事がいやになったわけではありませんが、なんとなく、都會の生活に疲れてしまったようなのです。
    -田舎に帰ろうかな-窓辺にもたれてそんなことを考えていた時、編集長がポンと肩をたたきました。
    「高原のペンションに、行ってきてくれないか? しあわせサラダという変わったサラダが出るそうなんだが、その料理人を取材してきてほしいんだ。なんだか、とてもうまいそうだよ」
    「しあわせサラダか…」
    すみれさんは、その言葉の響きにひかれて、行ってもいいなと思いました。
    --------------------------------------------------------------------------------
    -この仕事で最後にしよう。田舎にでも帰って、結婚でもしよう-高原に向かう列車の中で、すみれさんは、そんなことを考えていました。
    高原のペンションは、バス停からだいぶ入った、白樺林の中にありました。丸太小屋風の小さな建物でしたが、その色は、白でも水色でもなく、まるで風のようなふしぎな色でした。
    すみれさんは、額を流れる汗をハンカチでふきながら、玄関のチャイムを押しました。
    シャラン ロン リン ロンさわやかな夏の風のような音がして、すぐに、真っ黒に日焼けした男の人が出てきました。
    「いらっしゃいませ。お待ちしていました」
    ペンションのオーナーは、さわやかな笑顔で部屋へ案內してくれました。
    「最後の仕事、しっかりやらなくちゃ」
    すみれさんは、そんなことを考えながら、ベットの上に橫になると、なんだかとてもいい気持ちで、いつしか眠ってしまいました。
    --------------------------------------------------------------------------------
    「夕食の時間です」
    すみれさんが、ドアの外からの聲で目をさますと、あたりはすっかり暗くなっていました。
    食堂には、もう何人かのお客が集まっていて、オーナーが一人で、食卓の準備をしていました。どのお客も、なんとなく疲れているようすでした。
    「料理人の取材をしたいのですが」
    すみれさんがたずねると、オーナーは、ちょっと困ったように答えました。
    「申し訳ありません。今はちょっと、手が離せませんので…」
    すみれさんは、少し変だなと思いましたが、とにかく、サラダを食べてみてからにしようと思いました。
    最初に出された高原野菜のスープやハンバーグも、焼き立てのチーズパンや山ぶどうのワインも、どれもおいしそうでした。食べてみると、本當にその料理はとてもおいしくて、すみれさんたちは、あっという間に食べてしまいました。
    食べ終わると、中年の男の人が、オーナーを呼んで言いました。
    「しあわせサラダは出ないのですか? 私はそれが目當てでここに來たのに…」
    「私も、そうですよ」
    他のお客たちも、口々に言いました。
    「今つくっていますので、少々お待ち下さい」
    オーナーはそう言って、キッチンへ姿を消しました。
    「しあわせサラダって、どういうサラダなのかしら?」
    若い女の人が、待ち遠しそうにつぶやきました。
    「そのサラダを食べると、しあわせになれるというのならいいんだけどね」
    女の人といっしょに來たらしい若い男の人が言いました。
    「そんなサラダがあったら、毎日でも食べたいよ」
    さっきの中年の男の人が、ため息まじりにつぶやきました。
    すみれさんは、そんな言葉を聞きながら、そっとオーナーの後を追って、キッチンをのぞきに行きました。そこにはオーナーがただ一人、大きなガラスのボールに盛った野菜を、小さな器に分けているのが見えました。
    夜だというのに、窓が大きく開け放たれていて、そこから気持ちのよい風が吹き込んでいました。
    「料理人は、いないのかしら?」
    オーナーが、そのサラダを若草色のトレーに乗せようとしているのを見ながら、すみれさんは、あわてて寫真を一枚撮り、席へもどりました。
    「お待たせいたしました。これがしあわせサラダです。どうぞ、召し上がって下さい」
    オーナーは、みんなのテーブルにそのサラダを配りました。
    そのサラダは、レタスを敷いた上に、雑草のような野菜が盛られているだけのものでした。すみれさんは、サラダの寫真を一枚撮りました。
    「これがしあわせサラダなの?」
    若い女の人が、がっかりしたように言いました。
    「君、これは普通のサラダじゃないか。それにこの草はなんだ。ここに來る途中の道端にはえていたものじゃないのか?」
    中年の男の人が、おこったように言いました。確かにそのサラダは、今までの料理と違って、おいしそうには見えませんでした。
    「はい、そうです」
    オーナーは、気にとめるようすもなく、ニコニコしながら答えました。
    「ドレッシングはないんですか?」
    すみれさんが、たずねました。
    「たっぷり、かけてあります。今日は特別おいしくできました。ただ、ちょっと風が強かったので、ほこりが少し入ってしまいました」
    オーナーは、すまして答えながら、早く食べて下さいとすすめました。
    「私はいらないわ!」
    女の人が、不機嫌そうに席を立って、部屋を出て行こうとしました。若い男の人も、後を追いかけるように席を立ちました。
    すみれさんは、おそるおそるそのサラダを口に運びました。
    「おいしい!」
    そのサラダは、パリッとみずみずしくて、さわやかな苦味と、後に殘るふくよかな甘みが何とも言えずおいしくて、思わず聲を上げてしまいました。
    「うん。うまい」
    すみれさんの聲につられて食べ始めた中年の男の人も、一口食べると驚いたように叫びました。部屋を出ようとしていた二人も、そのようすを見ながら席に戻り、フォークを手にしました。
    「本當においしい。なんか、なつかしい味だな。ずっと昔、子供の頃食べたような!…。でも、何の味だったろう?」
    若い男の人が、そう言いました。
    「風の香りじゃありません? 遊び疲れて草の上に寢転がった時の、青い草と太陽の光が混ざったような、風の香り…」
    すみれさんが、ささやくように言いました。
    「そうか。味じゃなく、香りだったんだ。かすかに感じるほこり臭さも、子供の頃泥まみれであばれ回っていた時の匂いだ。なつかしいな。あの頃は本當に一生懸命で、しあわせだったんだ」
    中年の男の人が、うなずきながらいいました。
    「あの頃は、夢をたくさん持ってたわ」
    女の人が言いました。
    それからみんなは、子供の頃の思い出を、夜遅くなるまで楽しく語り合いました。
    「オーナー、どうもお世話になりました。私、仕事をやめようと思っていたのですが、もう一度、頑張ってみようと思います。しあわせサラダのおかげです。ありがとうございました」
    「そうですか。それはよかった。また、いつでもおいでください」
    すみれさんは、とうとう料理人の取材をさせてもらえませんでした。
    「あっ、そうだ。しあわせサラダの料理人って、もしかしたら…」
    そこまで言うと、すみれさんは話すのをやめました。
    「世界一すてきな記事を書きますから、きっと読んで下さい」
    すみれさんの足取りは、夏の風のように、とてもさわやかでした。