「舊暦の新年と新暦の新年」という今年正月の文章の中で、著者は日本人が舊暦の祝日を新暦で祝っている習(xí)慣を取り上げている。「郷に入れば郷に従え」で、日本にいる私は新しい習(xí)慣に従っているが、古い習(xí)慣も忘れていない。つまり、日本の新暦で祝うと同時(shí)に、中國(guó)の舊暦でも祝っているのだ。結(jié)局、祝日によっては二回祝うこともある始末だ。たとえば、つい先日の「端午の節(jié)句」も、日本人が菖蒲を買(mǎi)って菖蒲湯を楽しむ時(shí)、私はもち米と小豆を買(mǎi)って帰り、國(guó)內(nèi)から持ってきたナツメや葦の葉、ネジアヤメで粽(ちまき)を包んだ。そして、そこら辺からヨモギを取ってきて家の入口に飾った。中國(guó)の舊暦では、端午の節(jié)句はまだ早いというのに……。
作った粽はいつも友人たちに分けてあげているが、毎年好評(píng)を博している。日本の友人は、とりわけナツメに感心する。そのたびに、私は聞いてしまう?!溉毡兢稀⒅袊?guó)や世界各地から多くの食品を輸入しているのに、どうしてナツメはないの?」當(dāng)然、答えはない。中國(guó)の漢方でナツメは、補(bǔ)気養(yǎng)血(気を補(bǔ)い、血を造る)の働きがあると言われ、東漢時(shí)代の張仲景の『傷寒論』にある「桂枝(肉桂の枝分かれしている細(xì)い枝)スープ」は、「桂枝?芍薬?甘草?生姜」のほかに「ナツメ」が入っている。ナツメを食べて體を養(yǎng)うということは、だれもが知っている常識(shí)となっている。北方では、10月になると、さくさくする生のナツメが食べられる。赤いナツメだと一年を通して買(mǎi)い求めることができ、デパートにいけば、様々なナツメの加工食品が並んである。
日本人は、飲食と健康に気を使い、自然食品を嗜好するというのに、ナツメを食べる習(xí)慣がないとは、殘念で仕方ない。そこで、私が中國(guó)から日本に帰る時(shí)のお土産は、いつもナツメの加工品、あるいはサンザシなどになってしまう。そして、周りの友人たちもだんだんとナツメに馴染んできて、しかも好きになってきている。
何をやるにも最後まで突き詰めないと気が済まないのが私の悪い癖のようだ。普通、友だちにナツメのよさを紹介し、実物を上げたらそれで十分となるだろうが、私はなんとナツメの木を友だちが植えないものかと考えてしまうのだ。偶然にも、ある大型園蕓店でナツメの木の苗を発見(jiàn)した私は、これこそが問(wèn)題解決の根本であると考えた。そこで、農(nóng)園を持っている友だちに、ナツメの良さと美味しさを説明し、ナツメの木を植えることを提案したのである。意外なことに、友だちは私のこの奇想天外な申し入れを快く承諾してくれ、何本か苗を買(mǎi)って來(lái)て植えてみるという。6月にナツメの花の香りが漂い、10月になり、赤いナツメが枝いっぱいに実っている風(fēng)景を想像すると、興奮を抑えきれない。
ナツメと同様、私は日本の友人にそのほかの種類(lèi)も勧めている。スイカの種、ひまわりの種、カボチャの種などだ。中國(guó)ではひまわりの種の油は、コレステロールの抑制作用があり、しかも、肌の美容によい高品質(zhì)の食用油として知られている。中國(guó)人の家庭では、春節(jié)や祝日にはもちろんのこと、日常もこれを手放すことはない。デパートやスーパーマーケットに、種のコーナーがないということは考えられない。日本にいろいろな味のポテトチップスがあるように、中國(guó)の種にも多くの種類(lèi)がある。最近、日本の若い女の子の間で唐辛子を食べるのが流行っているようだが、ダイエットのためだという。私は彼女たちに勧めたい―─ひまわりの種を食べなさい。美味しくて美容にもよく、それをおやつにすると、太る心配などないから、と。
日本で、ひまわり類(lèi)の種はもっぱら鳥(niǎo)やリスなどのペットの餌となっており、ペットショップやペットフードショップなどに行かないと、買(mǎi)えない。つまり、優(yōu)雅な場(chǎng)にはふさわしくないとされているのだ。このひまわり類(lèi)の名譽(yù)復(fù)帰を図ろうと、私は常に家に遊びにくる日本人の友だちをもてなした。日がたつにつれ、友だちの中には食べ方がとても上手になる人もいて、みんな美味しそうに食べてくれた。もっと後になると、私が彼女たちの炒めたひまわりの種などをいただくようになったのである。小林という友だちは、私にこんな話(huà)を聞かせてくれた。最初、彼女の家でひまわりの種などを食べるのは彼女1人しかおらず、「鳥(niǎo)みたい、リスみたい」と、みんなに笑われた。しかし、少し時(shí)間がたつと、子供たちが一緒に食べ始めた。普段、親とも交流が少ない子供たちだが、これを食べ始めると、不思議と會(huì)話(huà)が多くなる。最後に、彼女の旦那さんが好奇心に駆られて、幾つか食べてみる?!袱?、美味しいじゃないか。鳥(niǎo)がこんなに美味しいものを食べているなんて、贅沢だな。」それ以來(lái)、旦那さんも一緒に食べるようになったそうだ。
現(xiàn)在、私が友だちの農(nóng)園に植えたひまわりの苗は青々としていて、すくすくと育っている。この夏にはきっと黃金の花を咲かせるだろう。種が成って、鳥(niǎo)が來(lái)て食べたらどうしようかと、心配している友だちに、私は大丈夫だと言った。鳥(niǎo)も食べる権利がある。鳥(niǎo)が半分食べ、人間が半分食べる。これこそ、人間と自然の在り方なのではないか。
私は冗談半分に、自分のことを中國(guó)の種の親善大使と呼んだことがある。種の文化交流に力を盡くしているから。野口先生は、中國(guó)で多くの珍しいものを召し上がり、「食は中國(guó)に在り」という言葉を身をもって體験されているが、今度は何か日本の食品を中國(guó)の友人に紹介してほしいと思う。たとえば、納豆―─失禮。先生がお好きかどうかは存じ上げてないが、多くの中國(guó)人が臭い豆腐を嫌がるように、多くの日本人も納豆を食べないと聞いている。ただ、私は納豆大好き人間だ。しかも、私に影響されて、我家族と親戚は、皆納豆ファンである。なんと、弟の1才になったばかりの娘も納豆愛(ài)好家となっているのだ。
親善食品 王 麗萍
“新歷年 舊歷年”一文中,作者提到日本人按新歷過(guò)舊歷節(jié)的習(xí)慣。入鄉(xiāng)隨新俗不忘舊俗,我現(xiàn)在是日本的新歷過(guò),中國(guó)的舊歷也過(guò)。結(jié)果,有些節(jié)就過(guò)兩次。比如剛剛過(guò)去的日本“端午”。當(dāng)日本人買(mǎi)回菖蒲,用來(lái)菖蒲浴時(shí),我買(mǎi)了糯米、紅小豆,加上國(guó)內(nèi)帶來(lái)的紅棗、葦葉和馬蓮草,包了粽子。還從外面采了一把艾蒿放在了門(mén)口。其實(shí)按照中國(guó)舊歷算,端午還早呢。
每年包粽子,總是與朋友共享,每每得到好評(píng)。日本朋友尤其對(duì)其中的紅棗,贊不絕口。這時(shí),我總是問(wèn),日本從中國(guó)以及世界各地引進(jìn)了很多食品,為什么沒(méi)有紅棗呢?答案自然是沒(méi)有的。中醫(yī)認(rèn)為紅棗有補(bǔ)氣養(yǎng)血功效,東漢時(shí)代的張仲景《傷寒論》中,“桂枝湯”一方除了“桂枝、芍藥、甘草、生姜”外,就是“大棗”?!≡谥袊?guó),吃棗補(bǔ)身體是常識(shí)。在北方,10月份,可以吃到清香脆甜的鮮棗,而紅色的干棗一年四季都可以買(mǎi)到。商店里還有各種棗的加工食品。
對(duì)飲食養(yǎng)生很講究,崇尚自然食品的日本人沒(méi)有吃棗的習(xí)慣總是一件很遺憾的事。每次從國(guó)內(nèi)回來(lái)送給朋友們的禮物,不是棗的加工品就是山楂等類(lèi)。漸漸地,周?chē)呐笥褌兪煜ち藯?,并且很喜歡。
干什么愛(ài)鉆牛角尖是我的毛病。按理,向朋友們介紹棗的功效,送給他們實(shí)物,已經(jīng)可以了。可是,我居然想到種棗樹(shù)上。一次,我在一家在大型園藝店,偶然發(fā)現(xiàn)了棗樹(shù)苗。我想這是從根本上解決問(wèn)題的辦法。我對(duì)一位有農(nóng)園的朋友,講了紅棗的養(yǎng)生與美食,并建議他種棗樹(shù)。對(duì)我的異想天開(kāi),朋友竟欣然應(yīng)允,答應(yīng)買(mǎi)幾棵來(lái)種。想象著六月棗花飄香,10月紅棗掛滿(mǎn)枝頭的景象,不能不讓人興奮。
同紅棗一樣,我還向日本朋友“推銷(xiāo)”瓜子:西瓜子,葵花籽,倭瓜子。在中國(guó)瓜子油是高質(zhì)量食用油,對(duì)膽固醇有抑制作用,據(jù)說(shuō)對(duì)皮膚還有美容作用。中國(guó)人家里過(guò)年過(guò)節(jié)自不必說(shuō),平日里也少不了它。商店里,自由市場(chǎng)上,沒(méi)有賣(mài)瓜子的柜臺(tái)和攤點(diǎn),那簡(jiǎn)直不可想象。像日本賣(mài)的各種口味的炸土豆片一樣,中國(guó)的瓜子流派也很多。據(jù)說(shuō)最近日本年輕女性流行吃辣椒,為的是減肥,我想對(duì)她們說(shuō),吃瓜子吧,又好吃又美容,用瓜子代替甜食,不用擔(dān)心發(fā)胖 。
在日本,瓜子是專(zhuān)門(mén)用來(lái)喂鳥(niǎo)和松鼠之類(lèi)寵物的,除了寵物店或?qū)櫸锸称穼?zhuān)柜買(mǎi)不到瓜子,不登大雅之堂。為了給瓜子正名,我經(jīng)常用它招待常來(lái)家玩的日本朋友。久而久之,一些人竟能很熟練地扒瓜子,吃得津津有味。再后來(lái),我就吃他們炒的瓜子了。一位叫小林的朋友對(duì)我說(shuō),一開(kāi)始她家中只有她一個(gè)人吃,大家笑話(huà)她是鳥(niǎo)、松鼠。沒(méi)想到,時(shí)間一長(zhǎng),孩子們也跟著吃起來(lái)。平時(shí)和家長(zhǎng)交流不多的孩子們,扒起瓜子來(lái),話(huà)竟多起來(lái)。最后,她丈夫忍不住好奇,嘗了幾個(gè)?!班?,味道不錯(cuò)嘛。鳥(niǎo)吃這么好吃的東西,也太奢侈了?!睆拇艘院螅煞蛞布尤氲匠怨献拥年?duì)伍來(lái)了。
目前,在朋友的農(nóng)園里,我種下的向日葵已經(jīng)綠苗茁壯,生機(jī)勃勃,相信今年夏天一定會(huì)開(kāi)放出金燦燦的花朵。朋友說(shuō),結(jié)了瓜子,鳥(niǎo)來(lái)吃怎么辦?我說(shuō),沒(méi)關(guān)系,鳥(niǎo)也有吃的權(quán)利。鳥(niǎo)吃一半,人吃一半。這才是人與自然應(yīng)有的關(guān)系。
我曾開(kāi)玩笑地戲稱(chēng)自己是中國(guó)瓜子親善大使,力促瓜子文化交流。野口先生在中國(guó)吃了很多稀奇古怪的東西,親身體驗(yàn)了“食在中國(guó)”。建議您也把日本的什么食品介紹給中國(guó)朋友吧。比如納豆。請(qǐng)?jiān)?,我不知道您是否喜歡,因?yàn)槲抑老窈芏嘀袊?guó)人討厭臭豆腐一樣,很多日本人不吃納豆。但我特別喜歡納豆。并且,在我的影響下,我的家人和我在中國(guó)的親屬,大家都是納豆謎,就連弟弟剛滿(mǎn)一歲的小女兒也是納豆愛(ài)好者。
作った粽はいつも友人たちに分けてあげているが、毎年好評(píng)を博している。日本の友人は、とりわけナツメに感心する。そのたびに、私は聞いてしまう?!溉毡兢稀⒅袊?guó)や世界各地から多くの食品を輸入しているのに、どうしてナツメはないの?」當(dāng)然、答えはない。中國(guó)の漢方でナツメは、補(bǔ)気養(yǎng)血(気を補(bǔ)い、血を造る)の働きがあると言われ、東漢時(shí)代の張仲景の『傷寒論』にある「桂枝(肉桂の枝分かれしている細(xì)い枝)スープ」は、「桂枝?芍薬?甘草?生姜」のほかに「ナツメ」が入っている。ナツメを食べて體を養(yǎng)うということは、だれもが知っている常識(shí)となっている。北方では、10月になると、さくさくする生のナツメが食べられる。赤いナツメだと一年を通して買(mǎi)い求めることができ、デパートにいけば、様々なナツメの加工食品が並んである。
日本人は、飲食と健康に気を使い、自然食品を嗜好するというのに、ナツメを食べる習(xí)慣がないとは、殘念で仕方ない。そこで、私が中國(guó)から日本に帰る時(shí)のお土産は、いつもナツメの加工品、あるいはサンザシなどになってしまう。そして、周りの友人たちもだんだんとナツメに馴染んできて、しかも好きになってきている。
何をやるにも最後まで突き詰めないと気が済まないのが私の悪い癖のようだ。普通、友だちにナツメのよさを紹介し、実物を上げたらそれで十分となるだろうが、私はなんとナツメの木を友だちが植えないものかと考えてしまうのだ。偶然にも、ある大型園蕓店でナツメの木の苗を発見(jiàn)した私は、これこそが問(wèn)題解決の根本であると考えた。そこで、農(nóng)園を持っている友だちに、ナツメの良さと美味しさを説明し、ナツメの木を植えることを提案したのである。意外なことに、友だちは私のこの奇想天外な申し入れを快く承諾してくれ、何本か苗を買(mǎi)って來(lái)て植えてみるという。6月にナツメの花の香りが漂い、10月になり、赤いナツメが枝いっぱいに実っている風(fēng)景を想像すると、興奮を抑えきれない。
ナツメと同様、私は日本の友人にそのほかの種類(lèi)も勧めている。スイカの種、ひまわりの種、カボチャの種などだ。中國(guó)ではひまわりの種の油は、コレステロールの抑制作用があり、しかも、肌の美容によい高品質(zhì)の食用油として知られている。中國(guó)人の家庭では、春節(jié)や祝日にはもちろんのこと、日常もこれを手放すことはない。デパートやスーパーマーケットに、種のコーナーがないということは考えられない。日本にいろいろな味のポテトチップスがあるように、中國(guó)の種にも多くの種類(lèi)がある。最近、日本の若い女の子の間で唐辛子を食べるのが流行っているようだが、ダイエットのためだという。私は彼女たちに勧めたい―─ひまわりの種を食べなさい。美味しくて美容にもよく、それをおやつにすると、太る心配などないから、と。
日本で、ひまわり類(lèi)の種はもっぱら鳥(niǎo)やリスなどのペットの餌となっており、ペットショップやペットフードショップなどに行かないと、買(mǎi)えない。つまり、優(yōu)雅な場(chǎng)にはふさわしくないとされているのだ。このひまわり類(lèi)の名譽(yù)復(fù)帰を図ろうと、私は常に家に遊びにくる日本人の友だちをもてなした。日がたつにつれ、友だちの中には食べ方がとても上手になる人もいて、みんな美味しそうに食べてくれた。もっと後になると、私が彼女たちの炒めたひまわりの種などをいただくようになったのである。小林という友だちは、私にこんな話(huà)を聞かせてくれた。最初、彼女の家でひまわりの種などを食べるのは彼女1人しかおらず、「鳥(niǎo)みたい、リスみたい」と、みんなに笑われた。しかし、少し時(shí)間がたつと、子供たちが一緒に食べ始めた。普段、親とも交流が少ない子供たちだが、これを食べ始めると、不思議と會(huì)話(huà)が多くなる。最後に、彼女の旦那さんが好奇心に駆られて、幾つか食べてみる?!袱?、美味しいじゃないか。鳥(niǎo)がこんなに美味しいものを食べているなんて、贅沢だな。」それ以來(lái)、旦那さんも一緒に食べるようになったそうだ。
現(xiàn)在、私が友だちの農(nóng)園に植えたひまわりの苗は青々としていて、すくすくと育っている。この夏にはきっと黃金の花を咲かせるだろう。種が成って、鳥(niǎo)が來(lái)て食べたらどうしようかと、心配している友だちに、私は大丈夫だと言った。鳥(niǎo)も食べる権利がある。鳥(niǎo)が半分食べ、人間が半分食べる。これこそ、人間と自然の在り方なのではないか。
私は冗談半分に、自分のことを中國(guó)の種の親善大使と呼んだことがある。種の文化交流に力を盡くしているから。野口先生は、中國(guó)で多くの珍しいものを召し上がり、「食は中國(guó)に在り」という言葉を身をもって體験されているが、今度は何か日本の食品を中國(guó)の友人に紹介してほしいと思う。たとえば、納豆―─失禮。先生がお好きかどうかは存じ上げてないが、多くの中國(guó)人が臭い豆腐を嫌がるように、多くの日本人も納豆を食べないと聞いている。ただ、私は納豆大好き人間だ。しかも、私に影響されて、我家族と親戚は、皆納豆ファンである。なんと、弟の1才になったばかりの娘も納豆愛(ài)好家となっているのだ。
親善食品 王 麗萍
“新歷年 舊歷年”一文中,作者提到日本人按新歷過(guò)舊歷節(jié)的習(xí)慣。入鄉(xiāng)隨新俗不忘舊俗,我現(xiàn)在是日本的新歷過(guò),中國(guó)的舊歷也過(guò)。結(jié)果,有些節(jié)就過(guò)兩次。比如剛剛過(guò)去的日本“端午”。當(dāng)日本人買(mǎi)回菖蒲,用來(lái)菖蒲浴時(shí),我買(mǎi)了糯米、紅小豆,加上國(guó)內(nèi)帶來(lái)的紅棗、葦葉和馬蓮草,包了粽子。還從外面采了一把艾蒿放在了門(mén)口。其實(shí)按照中國(guó)舊歷算,端午還早呢。
每年包粽子,總是與朋友共享,每每得到好評(píng)。日本朋友尤其對(duì)其中的紅棗,贊不絕口。這時(shí),我總是問(wèn),日本從中國(guó)以及世界各地引進(jìn)了很多食品,為什么沒(méi)有紅棗呢?答案自然是沒(méi)有的。中醫(yī)認(rèn)為紅棗有補(bǔ)氣養(yǎng)血功效,東漢時(shí)代的張仲景《傷寒論》中,“桂枝湯”一方除了“桂枝、芍藥、甘草、生姜”外,就是“大棗”?!≡谥袊?guó),吃棗補(bǔ)身體是常識(shí)。在北方,10月份,可以吃到清香脆甜的鮮棗,而紅色的干棗一年四季都可以買(mǎi)到。商店里還有各種棗的加工食品。
對(duì)飲食養(yǎng)生很講究,崇尚自然食品的日本人沒(méi)有吃棗的習(xí)慣總是一件很遺憾的事。每次從國(guó)內(nèi)回來(lái)送給朋友們的禮物,不是棗的加工品就是山楂等類(lèi)。漸漸地,周?chē)呐笥褌兪煜ち藯?,并且很喜歡。
干什么愛(ài)鉆牛角尖是我的毛病。按理,向朋友們介紹棗的功效,送給他們實(shí)物,已經(jīng)可以了。可是,我居然想到種棗樹(shù)上。一次,我在一家在大型園藝店,偶然發(fā)現(xiàn)了棗樹(shù)苗。我想這是從根本上解決問(wèn)題的辦法。我對(duì)一位有農(nóng)園的朋友,講了紅棗的養(yǎng)生與美食,并建議他種棗樹(shù)。對(duì)我的異想天開(kāi),朋友竟欣然應(yīng)允,答應(yīng)買(mǎi)幾棵來(lái)種。想象著六月棗花飄香,10月紅棗掛滿(mǎn)枝頭的景象,不能不讓人興奮。
同紅棗一樣,我還向日本朋友“推銷(xiāo)”瓜子:西瓜子,葵花籽,倭瓜子。在中國(guó)瓜子油是高質(zhì)量食用油,對(duì)膽固醇有抑制作用,據(jù)說(shuō)對(duì)皮膚還有美容作用。中國(guó)人家里過(guò)年過(guò)節(jié)自不必說(shuō),平日里也少不了它。商店里,自由市場(chǎng)上,沒(méi)有賣(mài)瓜子的柜臺(tái)和攤點(diǎn),那簡(jiǎn)直不可想象。像日本賣(mài)的各種口味的炸土豆片一樣,中國(guó)的瓜子流派也很多。據(jù)說(shuō)最近日本年輕女性流行吃辣椒,為的是減肥,我想對(duì)她們說(shuō),吃瓜子吧,又好吃又美容,用瓜子代替甜食,不用擔(dān)心發(fā)胖 。
在日本,瓜子是專(zhuān)門(mén)用來(lái)喂鳥(niǎo)和松鼠之類(lèi)寵物的,除了寵物店或?qū)櫸锸称穼?zhuān)柜買(mǎi)不到瓜子,不登大雅之堂。為了給瓜子正名,我經(jīng)常用它招待常來(lái)家玩的日本朋友。久而久之,一些人竟能很熟練地扒瓜子,吃得津津有味。再后來(lái),我就吃他們炒的瓜子了。一位叫小林的朋友對(duì)我說(shuō),一開(kāi)始她家中只有她一個(gè)人吃,大家笑話(huà)她是鳥(niǎo)、松鼠。沒(méi)想到,時(shí)間一長(zhǎng),孩子們也跟著吃起來(lái)。平時(shí)和家長(zhǎng)交流不多的孩子們,扒起瓜子來(lái),話(huà)竟多起來(lái)。最后,她丈夫忍不住好奇,嘗了幾個(gè)?!班?,味道不錯(cuò)嘛。鳥(niǎo)吃這么好吃的東西,也太奢侈了?!睆拇艘院螅煞蛞布尤氲匠怨献拥年?duì)伍來(lái)了。
目前,在朋友的農(nóng)園里,我種下的向日葵已經(jīng)綠苗茁壯,生機(jī)勃勃,相信今年夏天一定會(huì)開(kāi)放出金燦燦的花朵。朋友說(shuō),結(jié)了瓜子,鳥(niǎo)來(lái)吃怎么辦?我說(shuō),沒(méi)關(guān)系,鳥(niǎo)也有吃的權(quán)利。鳥(niǎo)吃一半,人吃一半。這才是人與自然應(yīng)有的關(guān)系。
我曾開(kāi)玩笑地戲稱(chēng)自己是中國(guó)瓜子親善大使,力促瓜子文化交流。野口先生在中國(guó)吃了很多稀奇古怪的東西,親身體驗(yàn)了“食在中國(guó)”。建議您也把日本的什么食品介紹給中國(guó)朋友吧。比如納豆。請(qǐng)?jiān)?,我不知道您是否喜歡,因?yàn)槲抑老窈芏嘀袊?guó)人討厭臭豆腐一樣,很多日本人不吃納豆。但我特別喜歡納豆。并且,在我的影響下,我的家人和我在中國(guó)的親屬,大家都是納豆謎,就連弟弟剛滿(mǎn)一歲的小女兒也是納豆愛(ài)好者。