日語閱讀:追憶(四)

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三五 久井田卯之助
    久井田(ひさいだ)という文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと稱していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達(dá)の一人だった。同時(shí)にまた今日ほどたくさんいない社會(huì)主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社會(huì)主義の信條を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸か滲(し)み入らなかった。が、日露戦爭中の非戦論者に悪意を持たなかったのは確かにヒサイダさんの影響だった。
    ヒサイダさんは五、六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人(おとな)同士の社會(huì)主義論をしたのはこの時(shí)だけである。(彼はそれから何か月もたたずに天城山(あまぎさん)の雪中に凍死してしまった)しかし僕は社會(huì)主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
    「夏目さんの「行人(こうじん)」の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳(ぜん)を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢(ろう)の中で読んだ時(shí)にはしみじみもったいないと思いましたよ」
    彼は人懐(ひとなつこ)い笑顔(えがお)をしながら、そんなことも話していったものだった。
    三六 火花
    やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊(duì)の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進(jìn)行をつづけていた。が、その靴(くつ)は砂利と擦(す)れるたびに時(shí)々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壯な心もちを感じた。
    それから何年かたったのち、僕は白柳(しらやなぎ)秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司(かみつかさ)小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中學(xué)生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文學(xué)者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩(こ)める「鳶色(とびいろ)の靄(もや)」などという言葉に。
    三七 日本海海戦
    僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪(なみ)高し」の號外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯(ひるめし)の時(shí)間に僕の組の先生が一人、號外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と聲をかけた。この時(shí)の僕らの感激は確かにまた國民的だったのであろう。僕は中學(xué)を卒業(yè)しない前に國木田獨(dú)歩の作品を読み、なんでも「電報(bào)」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
    「皇國の興廃この一挙にあり」云々(うんぬん)の信號を掲げたということはおそらくはいかなる戦爭文學(xué)よりもいっそう詩的な出來事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機(jī)関學(xué)校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
    「なに、あの信號は始終でしたよ。それは號外にも出ていたのは日本海海戦の時(shí)だけですが」
    三八 柔術(shù)
    僕は中學(xué)で柔術(shù)を習(xí)った。それからまた浜町河岸(はまちょうがし)の大竹という道場へもやはり寒稽古(かんげいこ)などに通ったものである。中學(xué)で習(xí)った柔術(shù)は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術(shù)は確か天真揚(yáng)心流だった。僕は中學(xué)の仕合いへ出た時(shí)、相手の稽古著へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投(ともえな)げを食い、向こう側(cè)に控えた生徒たちの前へ坐(すわ)っていたことを覚えている。當(dāng)時(shí)の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取(とっとり)の農(nóng)林學(xué)校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。
    三九 西川英次郎
    西川は渾名(あだな)をライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中學(xué)の四年か五年の時(shí)に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしにはできなかったであろう。が、僕は西川には何も報(bào)いることはできなかった。もし何か報(bào)いたとすれば、それはただ足がらをすくって西川を泣かせたことだけであろう。
    僕はまた西川といっしょに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だったらしい。しかし僕らは大旅行をしても、旅費(fèi)は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。
    たぶんまだ殘雪の深い赤城山へ登った時(shí)であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなことを言った。
    「君は両親に死なれたら、悲しいとかなんとか思うかい?」
    僕はちょっと考えたのち、「悲しいと思う」と返事をした。
    「僕は悲しいとは思わない。君は創(chuàng)作をやるつもりなんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない」
    しかし僕はその時(shí)分にはまだ作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。それをなぜそう言われたかはいまだに僕には不可解である。
    四〇 勉強(qiáng)
    僕は僕の中學(xué)時(shí)代はもちろん、復(fù)習(xí)というものをしたことはなかった。しかし試験勉強(qiáng)はたびたびした。試験の當(dāng)日にはどの生徒も運(yùn)動(dòng)場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強(qiáng)すればよかった」という後悔を伴った不安を感じた。が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。
    四一 金
    僕は一円の金を貰(もら)い、本屋へ本を買いに出かけると、なぜか一円の本を買ったことはなかった。しかし一円出しさえすれば、僕が欲(ほ)しいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡(しゅんじゅん)してはいないであろうか?
    四二 虛栄心
    ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往來の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時(shí)にまた妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」という勇気の起こることは感じなかった。薄い藍(lán)色に澄み渡った空には幾つかの星も輝いていた。僕はこれらの星を見ながら、できるだけ威張って歩いて行った。
    四三 発火演習(xí)
    僕らの中學(xué)は秋になると、発火演習(xí)を行なったばかりか、東京のある聯(lián)隊(duì)(れんたい)の機(jī)動(dòng)演習(xí)にも參加したものである。體操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機(jī)動(dòng)演習(xí)になると、時(shí)々命令に間違いを生じ、おお聲に上官に叱(しか)られたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。
    四四 渾名
    あらゆる東京の中學(xué)生が教師につける渾名(あだな)ほど刻薄に真実に迫るものはない。僕はあいにく今日ではそれらの渾名を忘れている。が、今から四、五年前、僕の従姉(いとこ)の子供が一人、僕の家(うち)へ遊びに來た時(shí)、ある中學(xué)の先生のことを「マッポンがどうして」などと話していた。僕はもちろん「マッポン」とはなんのことかと質(zhì)問した。
    「どういうことも何もありませんよ。ただその先生の顔を見ると、マッポンという気もちがするだけですよ」
    僕はそれからしばらくののち、この中學(xué)生と電車に乗り、偶然その先生の風(fēng)(ふうぼう)に接した。するとそれは、――僕もやはり文章ではとうてい真実を伝えることはできない。つまりそれは渾名どおり、正(まさ)に「マッポン」という感じだった。
    (大正十五年三月―昭和二年一月)