日本語の數(shù)詞に潛む謎

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愚考だが、ときおり考えては解けない日本語の數(shù)詞に潛む謎について少し書いてみ
    ようという気になったので書く。誰かこれを見て、謎が解けたら教えてほしいものだ
    、とも率直に思う。 
    日本語の起源は喧しく議論されているが、要領を得ない。大野晉など巖波などにお
    だてられて快進撃を続けている。白川靜といい、こうした「と」な老人をなんとかし
    ろよと思うが、ほっとけか。
    日本語は、比較言語學的には朝鮮語との対応がある程度システマティックに見られ
    る。文法構造に至っては日本語と朝鮮語はほぼ同じだ。というあたりまではわかる。
    また、スワディッシュの法螺話を応用して、日本語と琉球語の分裂年代という議論も
    ある。これは端的に間違いなのだが、日本史學と同様國語學は手がつけられない。ほ
    っとけである。
    とりあえず、文法構造的には朝鮮語と同型で、それに音韻の構造からみてポリネシ
    ア系の単語が加わったのが日本語になるということは言える。ここでいつも思うのだ
    が、ここから導かれる結論はたった一つしかない。日本語は人工言語だということだ
    。
    現(xiàn)代インドネシア語を少しでも知っている人ならわかってもらえると思うが、イン
    ドネシア語はマレー系の現(xiàn)地語の単語を英語の文法構造に押し込んでできた人工言語
    だ。分化したコミュニティを國家的に言語統(tǒng)一するとなると、支配者の知的な層の言
    語構造に民族アイデンティティを示す語を押し込むことになるのは必定だ。そんな簡
    単なこともわからないで日本語の起源とか議論している學者が多いのには呆れる。い
    ずれにせよ、文法構造のほうは疑問の余地がないのだが、問題は単語の起源のほうだ
    。いったい日本語の単語はどこから來たのか?というのが仮の日本語起源の問題にな
    る。 
    スワディッシュの理論はふざけたしろものというか、閉鎖モデルでしかないので日
    本語には原理的に適用できないのだが、それでも、比較言語理論の基礎として基本語
    彙というのが設定されている。結論から言うと、私はこの基本語彙というのが間違い
    のもとだと思う。
    基本語彙にはいくつか特徴があるが、身體語と數(shù)詞というのがある。もともと比較
    言語學は西歐語の起源論から出來たもので、あいつらの言語の場合、特に數(shù)詞はわか
    りやすい。もともと算術に弱いのだ、あいつらはね。だが、日本人の祖先たちは、縄
    文時代から海洋交易が盛んなので、數(shù)詞は山羊を數(shù)えるといったものではなく、即マ
    ーケットニーズに結びつく。だから、本質的にポリネシアや沿岸地域のリンガフラン
    カはマーケット性の人工言語という相貌になる。このあたりの説明はどうも話を端折
    りすぎて難しいかもしれないのだが。
    つまり、數(shù)詞について、言語起源論的に基本語彙に持って行くのは間違いだと私は
    言いたい。逆にこの日本語の數(shù)詞というのは、古代のどのようなマーケットを反映し
    ているのか気になる。というのは、私の直感にすぎないのだが、日本語の數(shù)詞という
    は言語アバカスだと思うのである。言語アバカスというのは私の造語だ。算術用言語
    ということだ。もう少し直感をくだいてみせよう。ある程度話は雑駁になる。
    日本語の1つは、pitotuである。2つはputatuである。tuは個數(shù)につく添え語のよ
    うなものだ。語幹をpitoとするか、ひーふーみーよーというようにpiで切ってtoを構
    成語にするかはよくわからない。仮に1をpiとするとこの倍がpuである。同じ構造が
    3と6にある。3がmiであり6がmuだ。これだけなら偶然かもしれないが、4がyoで
    8がyaだ。こういう構造がある。
    1系   pi  pu
    3系   mi  mu
    4系   yo  ya
    yoとyaは構造的には、yiとyuになればきちんと整合するが、この流音yは口蓋に近い
    母音と分化しにくいので、あとに両唇に近い母音で分化されたのかもしれない。
    yi+a→yia→yoa→yo
    yu+a→yua→ya
    この変化はこじつけ過ぎるかもしれない。
    5と10では、itutuとtoで一見すると構造が見られない。だが、itutuのtuは個數(shù)
    の添え語とするとituで、iの前のなにかがドロップしたとすると、構造は予感される
    。
    5系   xi  to
    xはt音かもしれない。 
    さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4
    系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍數(shù)から殘され
    た7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。
    以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない
    。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍數(shù)の計算原理がこの數(shù)詞に潛んで
    いることは間違いないということだ。
    だから、その倍數(shù)構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみた
    いのだ。
    この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「
    これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それ
    は、どういう算術なのだろうか。倍數(shù)を原理とした商用計算はどのように可能だろう
    か。
    もう一點の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに殘っているかだ。これが
    わからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(參考)をときたま眺
    めるのだが、類似の數(shù)詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の
    數(shù)詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちに
    なる。
    古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支)
    によって成り立っているので、倍數(shù)原理がこのバランスのために利用されていたと思
    われるのだが、わからない。
    身體語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそう
    だが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本
    の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニ
    ティに富を蓄え國家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬま
    でにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。
     
    日語知識點:日語中主要有3種時態(tài):過去時、現(xiàn)在時、將來時。其中,現(xiàn)在時和將來時沒有明顯的時態(tài)標記(即都采用動詞原形),要靠動詞的種類和上下文的關系區(qū)別。因此,從形態(tài)上說,我們也可以認為日語的時態(tài)分為過去時和非過去時兩種。
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